秋葉原事件から10年。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 あの忌まわしい秋葉原事件から10年。

突然襲った意味不明の子の被害者たちの悲しみと

憤りはいかばかりであろうかと心が痛みます。

 また加害者その家族を完膚なきまでに

フォーカスし続けた挙句、加害者の家族は崩壊し

加害者の弟は精神的に追い詰められて自殺している。

 記者会見においても「自殺」の実効性をこぼしていながら

これを緊急性としてとらえることもなく自殺までもスクープとして

記事に乗せている。

 加害者家族の将来と言えば事件の発生ですでに

大きな制裁を受けてもいます。

冷ややかな目で見られそうではありますが

週刊誌のフォーカスの範囲にも枠がはめられてもよいのではないのでしょうか。

    いつだってこの立場になりうることもひていはできない!

 加害者のお父さんは銀行退職後は、毎日伝統をつけることなくろうそくで

生活されています。

これもふぉーかすにたいするおびえなのでしょうか?

 お母さんの病気に気づけなかった家族の不幸の連鎖もまた

悲しい原因ともいえるのでしょうか?

狂気の兄と歪んだ母の愛

 まずは、今回私が話をすることに決めた理由から説明させてください。先日、私の父

が自宅の前で、事件に関して報道陣を前に詫びる姿を、テレビで見ました。ワイドショ

ーの出演者の中には、父の謝罪会見の様子を見て、「機械的すぎる」「用意された文章

を覚えて読んでいるようだ」などと言う人もいました。

 これだけ社会に大きな影響を与えた事件です。家族が犯した過ちについて話すことは

、私たち自身を傷つける結果になることはわかっています。しかし、被害者・遺族の方

々に与えてしまった、想像を絶する苦痛、また国民の皆さんに与えた不安を取り除くた

めには、謝罪だけではなく、事件に関して何らかの説明をすることが必要だと思いまし

た。"犯人"と同じ屋根の下で過ごした影響を説明することが、今回の凶行を起こした原

因を紐解くきっかけになればと思い、この手記を発表することにいたしました。

父の電話で兄の犯行を知る

 その日、私は勤務先で仕事をしていました。夕方頃、勤務先のテレビから秋葉原で大

量の人が殺されたというニュースが流れてきました。そのときは、他人事だと思ってい

たのですが、勤務が終わり、夜の11時に帰宅すると、父から、

「智大が重大な事件を起こして、お前のところにも大きな影響が来る。詳しいことは後

で話すから、とりあえず、そこを出なさい」

 と電話がありました。私は何のことかわからなかったのですが、とりあえず家を出な

ければ、と思い、しばらく身を寄せておけないか、と知人に電話をすると、

「お前の兄貴って加藤智大って名前?秋葉原事件の犯人だぞ」

 と言われました。本当にびっくりしたのと同時に、アイツなんてことをやってしまっ

たんだ!と思いました。そのとき、なにより真っ先に心配したのは勤務先のことです。

次に心配したのが母のことでした。

 その夜のうちに勤務先の社長さんに連絡をして退職させていただきました。大切な職

場だったので翌日からの仕事の引き継ぎをお願いしていると、社長さんは、

「こんな時でも仕事のことを考えるなんて。なんで君みたいなやつが・・・・・・」

 と涙声で答えました。

 翌日以降、報道陣がうちにかけつけ、アパートに住むこともできなくなったので引っ

越しをし、現在は、知人のところにお世話になっています。

(編集部)平穏な暮らしを襲った悲劇。彼が平静を取り戻すには多くの時間が必要だが

、時がたつにつれ少しずつ、兄への憎しみと怒りがあふれてきたという。彼は兄のこと

を「犯人」「アレ」と呼ぶ。このことからも、兄に対してもつ深い憎悪の念を窺い知る

ことができる。

 犯人は私の兄です。しかし、アレが高校を卒業してからの7年間、私とは完全に音信

不通でした。何年か前の正月に、実家にいるアレの姿を見かけましたが、話はしていま

せん。そのときが、アレの姿を見た最後となりました。

 私の両親が厳しい教育方針をとっていたと、よく報じられていますよね。しかし、私

が小学生のころは、ごく普通の幸せな家族だったんです。夏休みには毎年、家族旅行に

出かけ、食事の時も笑って話しあったりしていました。兄との関係もその頃までは良好

で、、「SDガンダム」のプラモデルを作って交換したり、二人で「ホワイトベース

ガンダムに登場する戦艦)」のプラモデルを組み立てたりしていました。ただ、こうし

た関係が続いたのは私が小学校3年の頃までです。それ以降は、まともに話をしたこと

がありません。

書いては捨てて「先生ウケ」を

 家庭の中が少しずつ冷えていったのは、私が小学校4年生頃からです。それ以来、一

年経つごとに、家族の仲は悪くなって行きました。家には、父・母・犯人・私と、個人

ごとに部屋があり、別々に寝ていました。母は1階、残りの3人は2階です。家族が顔

を合わせるのは食事の時だけ。母が食事を告げると3人が部屋から降りてきて無言で食

卓を囲み、また各々の部屋に帰る。そんな毎日です。当時、子供だったこともあって、

なぜ関係が冷えていったのかその原因はわかりませんが、家族のなにかが変わっていく

様子は、感じとることができました。

 報道では父の厳しさが強調され、スパルタだったと言われていますが、それは間違い

です。たしかに手を上げたこともありましたが、それは父親が男の子にする普通のしつ

けの類でした。父はむしろ口で注意するくらいで、子供に干渉するタイプではなかった

。母の厳しさのほうが、強く記憶に残っています。今にして思えば私たちの将来のこと

を心配してのことだったのかもしれませんが・・・・・・。

 犯人は犯行数日前の携帯サイトへの書き込みの中で、親が書いた作文や絵を学校に提

出していたと言っています。それを聞いた人は、母が筆を持ち作文や絵をかくのだと誤

解されると思います。実際は、作文に関してはテーマや文章、絵に関してはやはりテー

マや構図を母が指示するのです。与えられるテーマの根底にあるのは「先生ウケ」でし

た。私たちはまるで機械のようにそれに従って文章をかき、絵を描くのです。こうして

母の狙い通り、先生たちはその文章や絵を褒めてくれました。

 子供たちの考えを把握したいからなのか、私たちの書く作文には必ず目を通していま

した。私はそれを「検閲」と呼んでいました。母は「検閲」によって、私が書いた言葉

を、先生ウケする言葉に書き換えました。

 母は常に完璧なものを求めてきました。原稿用紙に作文を書くときに一文字でも間違

えたり、汚い字があると、書き直しです。消しゴムなどを使って修正するのではなく、

途中まで書いたものをゴミ箱に捨て、最初から書き直しになります。書いては捨て、書

いては捨ての繰り返しで、一つの作文ができあがるまでに1週間近い時間がかかるのが

常でした。良い教育が良い将来に繋がると信じる母の愛は、過剰な形で私たちに与えら

れました。

 また自由にモノを買うこともできませんでした。私もアレも小説を読むのが好きだっ

たのですが、、本を自由に買うことはできませんでした。本を買う際は何がほしいかを

伝える必要があり、さらに読んだ後に読書感想文を書いて母に見せなければなりません

でした。

 本だけではありません。ほしいモノがあったときは常に母に許可をとる必要がありま

した。だから、私はモノをほしがるということ自体なくなりました。

 一般的に、母親というものはヒステリックなものだと思います。母も同じで、怒るの

は主に「テストの成績が悪い」といった、成績に関することです。そこから「口のきき

かたが悪い」「態度が悪い」と論点がずれていって体罰エスカレートすることもあり

ました。

 犯人は、母が「より優秀な弟を自分よりかわいがっていた」ということを供述してい

るようですね。成績に関しては私のほうが優秀だったので、たしかにアレのほうがよく

怒られていたかもしれません。

 アレが中学1年の時のことです。その日の夕食も、家族が無言で食卓に付いていまし

た。なぜそうなったのかは忘れてしまいましたが、食事の途中で母が突然アレに激昂し

、廊下に新聞紙を敷き始め、その上にご飯や味噌汁などその日の食事を全部ばらまいて

「そこで食べなさい!」

 と言い放ったんです。アレは泣きながら新聞紙の上に積まれた食事を食べていました

。私は食卓の上の食事を食べながらそれを横目で見ていました。そのときは父も黙って

いました。

(編集部)加藤容疑者の弟は、テレビのニュースで兄の姿が映るたび、しばしうつむい

て、体を震わせた。やはり「兄があの凶悪事件の犯人である」という現実に向き合うこ

とは、彼にとってまだ受け入れがたいところがあるようだ。

女の子の年賀状が冷蔵庫に貼られ

 "オタク殺人者"などと犯人は呼ばれていますが、子供のときは、「オタク」と呼ばれ

るような要素は皆無でした。テレビは1階に1台ありましたが、見るのは禁止でした。

許されていた番組は『ドラえもん』、『まんが日本昔ばなし』だけです。私は中学2年

になるまでこの二つの番組しか見たことがありません。テレビを見る習慣は家庭内には

なく、ニュースさえも見ませんでした。

 ゲーム好き、という報道も多くありますが、アレが家にいるときにゲームを長時間し

ている姿を見たことはありません。ゲームは土曜日に1時間だけ、というのがルールで

した。家にはプレイステーション2がありましたが、アレが最初に買ったのは「グラン

ツーリスモ」、次に買ったのが「バイオハザード」。中学の卒業文集に出ていた「テイ

ル オブ デスティニー」は3番目に買ったものでした。また、マンガや雑誌なども読ん

だことがありませんでした。今でもマンガや雑誌を読む習慣はありません。

 さらに、友達を家に呼ぶことも友達の家に行くことも禁止されていました。友達を呼

ぶことが禁止されていたのは、「お菓子をあげるのがめんどくさい」「ゲームをやられ

るのが嫌い」というのが理由のようです。ただし、特別扱いの友人が犯人に一人、私に

は二人いました。犯人は小学生のときに、その一人だけを家にあげています。私は中学

時代に二人、家に友達を呼ぶことが許されました。

 と犯人が犯行直前に掲示板に書き込んだことが報じられています。確かに、勉強はで

きましたし、スポーツ万能でした。何より足が速かった。良い意味で目立っていたので

、モテていた可能性はあります。しかし、母は男女の関係に関しては過剰なまでの反応

を見せました。アレが中学生のときに、クラスの女の子から年賀状が来たことがありま

した。そこには「好き」というようなことが書いてあったと記憶していますが、なぜか

それが、見せしめのように冷蔵庫に貼られていました。

 中学1年のとき、私にも、女の子から同じようなハガキが来たのですが、食事のとき

にバンッとテーブルにたたきつけて、

「男女交際は一切許さないからね」

 と言いました。異性という存在は、徹底的に排除されていました。テレビを見ないせ

いもありますが、女性アイドルの名前と顔など一度も覚えることはありませんでした。

だから、事件と秋葉原を結びつけるような報道には、どうにも納得ができないんです。

 徹底的な管理が家庭内では行われていましたが、犯人と私が通った中学校も、また奇

妙なところでした。そこの教員たちの教育はまるで軍隊のようでした。アレは中学時代

にテニス部に所属していました。私も中学時代はテニス部でした。そのテニス部の顧問

だったAはいわゆる熱血で、

「何のためにテニスをやっているんだ」

 と、生徒を横に並べて叫びました。生徒もそうした教育に"洗脳"されていたので、問

いかけられた生徒は決まって「勝つためです」と声をそろえます。Aは私の担任でもあ

りましたが、合唱コンクールなどで声が低く音程が合わない人間がいると、

「やる気がないならやめろ!」

 と大声をあげ、生徒は、

「やめません!やらせてください!」

 と誰しもが答えていました。まるで軍隊のような感じで、それが当たり前のことと思

われていました。生徒の個性などというものは存在さえしませんでした。

 アレと私は3学年離れていますが、アレが在校したときの教師陣と私が学んだ教師た

ちは一緒です。当時の私と犯人は、家でも学校でも厳しく管理されていたということで

す。

爆発した兄、血を流した母

 成長するに従って、「犯人」は犯行期を迎えます。爆発したのは中学3年の頃でした

。私と母とアレが3人で自宅にいたときのことです。母と兄は下の階に下り、私は自分

の部屋にいたのですが、何か母と兄が口論をしていたのが聞こえたんです。口論が終わ

ったころ、下に降りると、普段メガネをかけている母がメガネを外して泣いていたんで

す。顔をティッシュかハンカチで押さえていたので、血が流れていたんだと思います。

そこで兄が母を殴ったんだと理解しました。どうしたの?と尋ねると母は何も答えませ

ん。その後、母は1階の自室にこもって、その日の夕食はありませんでした。それ以降

、アレが母を殴った姿を見たことはありませんが、その一件で犯人は感情を爆発させる

ことを覚えたのでしょう。

 暴力の矛先が向けられたのは部屋の壁です。だからアレの部屋の壁は穴だらけになっ

ています。学校でも、何かイライラすることがあって素手で教室のガラスを割ったこと

がありました。横に並んだガラス窓を拳で叩き、何枚ものガラスを破壊したそうです。

血まみれになって家に帰ってきたのを覚えています。怒りを溜め込むということをしな

くなり、瞬発的に暴力が出るようになりました。同じ環境で育ったせいか、私自身も壁

を蹴ったり殴ったりすることがくせになったんです。恥ずかしい話ですが、私が引き払

ったアパートの部屋の壁は少しへこんでいます。

 あれは地域でも一番の人間が集まる「セイコー【県立青森高校】」に入学しました。

アレがセイコーに合格したことに、本当に両親は喜んでいました。冷えた関係ではあり

ましたが、合格祝いのパーティーが開かれました。普段は酒を飲まない父も酔っぱらっ

て上機嫌になりました。そういえば、報道では父が酒を飲んで暴力を振るったなどと言

われていますが、父は家では酒を飲みません。冷蔵庫の中に酒の類が入っているのは見

たことがありません。合格祝いの時に父が酔った姿を見たのが、私が初めて見た「酔っ

た人間」です。そのくらい、酒は家庭から離れたものでした。

 両親に祝福されて高校に入学した犯人ですが、秀才ばかりが集まっていたので、中学

では秀才だった彼が、あっという間に普通の人になりました。母もだいぶ成績について

注意をしたんだと思います。しかし、あれは、聞こうともしなかった。母は口にこそ出

しませんでしたが、そのとき母の期待は私に移ったんだと思います。私への愛情の移行

を犯人は敏感に嗅ぎとり、自分は必要のない人間だと誤解したんだと思います。母に、

「俺より弟を優先して、俺を見放すのか!弟だけにしたいんだろう」

 と詰め寄っている姿を目撃したことがあります。

 そんなアレを見て母も自信をなくしたんでしょう。私が中学2年の時に"ルール緩和"

が行われ始めました。テレビが見られるようになりました。高2の兄はこのとき、テレ

ビを買ってもらいました。

"洗脳"した母を許す弟と憎む兄

 私はそれまで、こうしたルールの多くがどこの家庭でも行われているものと思い込ん

でいました。ところが、高校入学後、自分の育った家庭や中学がかなり変わったもので

あることに気付き、衝撃を受けました。私は自分は"洗脳"を受けていたことに気がつき

ました。そのとき、私は母を恨みました。犯人ももしかすると、高校進学時に同じこと

を感じていたかもしれません。犯人は高校を卒業し、自動車整備学校に入学しました。

岐阜にある短大(中部日本自動車短期大学)ですので、アレもそのときに岐阜に引っ越

しました。アレは車が大好きで、子供のころからよく車のプラモデルを作っていたんで

す。

 しかし、岐阜ではバイクに乗っていました。バイクで青森まで帰省したこともありま

したし、サーキットでのバイクのレーシングチームのスタッフとして働いたこともあり

ました。私はバイクには詳しくないのですが、帰省した時に見かけたのはレースに出る

ような形のバイクでした。

 私は20歳で東京に移り住み、そこで先日まで働いていた勤務先に巡り合ったんです。

今の自分にとって唯一楽しいことは仕事です。東京で一人暮らしをするのに充分な収入

はありませんでしたが、父が家賃の援助や携帯電話の支払いをしてくれたりもしました

。犯人は借金だらけと報じられていますが、そういえば、アレが以前、事故を起こした

ことがありました。家にカネの無心の電話をかけてきたのを覚えています。私の家賃を

助けてくれた父ですから、その時も、そのおカネを払ったと思いますし、最近まで何ら

かの援助もしていたと思います。

 また父と母は不仲で別居をしていると報道されていますが、それは間違いです。昨年

秋ごろ、父が母の貯蓄を勝手に使ったうえに、父に借金があることが判明し、母がある

期間だけ家を飛び出してしまった。それだけです。父の借金の理由はわかりませんが、

黙って私を援助してくれる父です。こうしたことが借金の原因だったかもしれません。

いずれにしろ、私たちが一家離散状態だったなどということはありません。

(編集部)同じ教育を受けてきた弟と兄。一方は働く喜び、日々を楽しむ喜びを知り、

充実した生活を送っている。もう一方は仕事、生活、社会に対する怨恨から、殺人犯へ

と転落した。一体その違いはどこにあったのだろうか。

 "洗脳"。厳しい躾や教育をそう呼んでいた私ですが、、20歳の時、上京する前に母と

ようやく理解し合えました。母と邂逅したのです。母が、

「お前たちがこうなってしまったのは自分のせいだ」

 とつぶやき、私に謝罪してきたんです。実は私は、3ヶ月で高校を辞めた後、実家の

部屋に引きこもっていた時期がありました。だからある時期私は、うまくいかない状況

を母のせいにしてきました。私は母の謝罪の言葉をきっかけに、母を許すことができま

した。犯人が供述中に自分の生い立ちを語って『泣いた』と報道されていますが、私は

犯人が両親に対して申し訳ない、という気持ちで泣いているわけでは絶対にないと思っ

ています。なぜなら、アレは今でも両親を強烈に恨んでいるはずだからです。自分の境

遇に涙しただけだと思います。

 同じ家庭、環境におかれながら私が犯人と同じことをしないのは、外の世界に飛び出

し、苦しみながらもそれまで欠けていたものを手に入れたからだと思います。だからこ

そ、テレビ画面で、泣き崩れる母の姿、また白髪が増えた父の姿を見て、何よりも二人

のことを心配しているんです。

 音信不通で、何をしているのかさえわからなかった犯人は、私にとって家族ではなく

他人にしか思えません。事件のせいで私は喜びの場所であり、社会との接点であった勤

務先を失いました。私も犯人を憎むものの一人です。しかし、それでも私たちは家族で

す。知人のもとに身を寄せながら、ただ一人、被害者の方や遺族の方たちの受けた想像

を絶する苦痛を思い、震える毎日を送っています。おそらく母や父も同じような気持ち

でいると思います。

 被害者.遺族の方たちへ謝罪を行うことがせめてもの償いだとは思います。しかし一

人ひとりに謝罪していこうとしても、力尽きて全員の方に謝罪できなくなってしまうほ

ど今は疲労困憊しています。私の家の恥部をさらすことで、犯人が犯行に及んだ説明の

一端になれば・・・・・・。そのことが現在の私にできるすべてだと思っています。亡

くなられた方のご冥福と、傷を負った方の一日も早い回復を、心より祈ってやみません

それを知ったのは、先週発売された週刊誌でのことだった。

 享年28歳。兄が「秋葉原無差別殺傷事件」の犯人であるという現実は、この6年間

、どれほどの苦痛を彼に与え続けただろうか。

 「週刊現代」4月26日号には、そんな彼(A男とする)の手記が紹介されている。

 事件当日、着の身着のままアパートを出てからの、職と住居を転々とする日々。しか

し、引っ越して1ヶ月もするとマスコミの人間が彼のもとを訪れる。「やっぱり逃げら

れないんだな」という諦めにも似た思い。が、そんな中でも、「希望」はあった。恋人

ができたのだ。

 事件のことを打ち明けると、恋人は「あなたはあなただから関係ない」と言ってくれ

る。しかし、結婚の話になると、交際を認めてくれていた彼女の両親は猛反対。結局、

2人の関係は破綻してしまう。

 A男にとって辛かったのは、彼女から言われた「一家揃って異常なんだよ、あなたの家

族は」という言葉だったという。最初で最後の恋人との破局は、A男に深い絶望を与えた

 手記には、以下のような言葉が綴られている。

 「結果論ですが、いまとなっては逆効果でした。持ち上げられてから落とされた感じ

です。もう他人と深く関わるのはやめようと、半ば無意識のうちに決意してしまったの

です」

 そうして彼は、社会との接触をできるだけ避けるようになっていく。

 「突きつめれば、人を殺すか自殺するか、どっちかしかないと思うことがある」

 そんな台詞を記者に漏らしたこともあったという。

 そうして死の1週間前の今年2月には、餓死に失敗。彼は記者にこう語ったという。

 「餓死って難しいですね。10日目に水を飲んでしまった。なぜ餓死か? いちばん苦

しそうだから。やっぱり、加害者は苦しまなければならない。楽に死んではいけないん

です」

 それから1週間後、A男は自らの命を絶った。

 08年に起きた秋葉原事件は、7人の命を奪い、10人を負傷させた。ワケもわから

ないままに命を絶ちきられた7人と、その家族。そして一命はとりとめたものの突然被

害に遭遇した10人と、その家族。

 この十数年ほどで、この国ではやっと「被害者遺族」への支援や権利について語られ

るようになってきた。まだまだ法整備など足りないことだらけだが、「被害者遺族」が

まったく顧みられなかった時代を思えば、ほんの少しだけ前進していると言えるだろう

 一方で、加害者の家族の問題については手つかずのままだ。

 「加藤智大の弟、自殺」という一報を知った時、私の頭に浮かんだのは宮﨑勤のこと

だった。88年、連続幼女殺人事件を起こした宮﨑勤の父親もまた、事件後に自殺して

いる。父親のもとには、全国から大量の非難の手紙が届いていたという。

 A男は亡くなる前、記者に「母」を案じる言葉を残している。

 「唯一心配なのは、母親です。事件発生時の母は病的に取り乱していて、思い出すと

いまだにザワザワします。その母親が僕の死を知ったらどうなるのか・・・」

 事件発生後、多くのメディアが加藤智大が母親から受けていたという「虐待」につい

て書き立てた。母親は精神科に入院し、一時は誰も面会できないほどだったという。一

方で父親は、勤めていた信用金庫を退職。脅迫や嫌がらせ電話が相次ぐことから電話を

解約し、あの事件以降、電気をつけずロウソクの灯りで暮らしているという。ちなみに

両親は既に離婚している。

 7人を殺害し、死刑囚となった長男と、自ら命を絶った次男。そしてバラバラに子ど

もの罪と向き合う父親と母親。

 A男は手記に、「加害者家族」の苦しみについて、書いている。

 「被害者家族は言うまでもないが、加害者家族もまた苦しんでいます。でも被害者家

族の味わう苦しみに比べれば、加害者家族のそれは、遥かに軽く、取るに足りないもの

でしょう。

 『加害者の家族のくせに悲劇ぶるな』

 『加害者の家族には苦しむ資格すらない』

 これは一般市民の総意であり、僕も同意します。

 ただそのうえで、当事者として言っておきたいことが一つだけあります。

 そもそも、『苦しみ』とは比較できるものなのでしょうか。被害者家族と加害者家族

の苦しさはまったく違う種類のものであり、どっちの方が苦しい、と比べることはでき

ないと、僕は思うのです。

 だからこそ、僕は発言します。加害者家族側の心情ももっと発信するべきだと思うか

らです。

 それによって攻撃されるのは覚悟の上です、犯罪者の家族でありながら、自分が攻撃

される筋合いはない、というような考えは、絶対に間違っている。

 攻撃、結構なことじゃないか。どうやったって自分たちが良い方向にはもう修正され

ない。だから自分が悪評で埋め尽くされ、人間らしい扱いをされなくなっても、僕は構

わない」

 ある意味、ここまで覚悟していたのに、彼は命を絶ってしまった。

 

     アサヒコムより。

秋葉原で重傷、「なぜ」追い求め10年 死刑囚との手紙 (6/8)

 「なぜ、無差別だったのか。なぜ、踏みとどまることができなかったのか」。東京・

秋葉原の無差別殺傷事件で重傷を負った湯浅洋さん(64)は問い続けてきた。事件か

ら8日で10年。初めて発生時間帯に現場に足を運ぶ。

 昨年5月、島根県浜田市から1千キロ以上離れた青森市まで、2日がかりで車を走ら

せた。広がる平野に川が流れるのどかな町に、加藤智大(ともひろ)死刑囚(35)の

実家はある。両親と話したい。インターホンを鳴らしたが、反応はなかった。加藤死刑

囚が通った中学校や高校も見に行った。

 10年前のあの日は日曜日だった。タクシー運転手の仕事中、歩行者天国の入り口前

の交差点に赤信号で止まっていた。フロントガラス越しに、正面から現れたトラックが

歩行者天国に突っ込み、次々と人をはねるのが見えた。トラックは自分のタクシーの横

を通り過ぎ、後方で止まった。

 タクシーを降りて倒れた人に駆け寄り、介抱に当たっていた時だった。「ドン」。背

後から抱え込まれるように何かがぶつかった。振り返ると、警察官を背後からダガー

イフで刺す男の後ろ姿が見えた。自分の脇腹には血がにじんでいた。警察官の前に、自

分が刺されていたことに気付いた。ダガーナイフが肺を貫通していた。病院への搬送中

に失った意識が戻ったのは、4日後だった。

 退院後も突然汗がふき出し、頻…