地方の活性化が、経済の成長戦略かも?

      ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 経済の活性化はなぜか平成は沈み切っています。

これはひとえに世界情勢にも引っ張られていましたが

今を生き抜く力、エネルギーの企業戦略にはパワーも感じます。

ここにきて自己否定と変革の暴走こそが

あるべき姿のように妄想し続けたことのひずみと

あおりを受けているのが現代病と言えるのかもしれない。

変革と改革こそが前進のように受け入れられていますが

これは勇み足に陥りやすく成長戦略にはつながりにくい。

     東洋経済より。

自家撞着の改革をやめて「土着の知」に戻れ 平成は「

自己否定と変身願望」の30年間だった

なぜ「プロジェクトX」は泣けるのか 施光恒(以下、施):国内外で社会心理学的調査

を行って比較すると、意識のレベルでは欧米人よりも日本人のほうが個人主義的な傾向

が強く出るんです。たとえば「自己犠牲をどのくらい重視するか」「個人は集団のため

にどれぐらい貢献すべきか」と直接的に尋ねると、アメリカやカナダと比べても、日本

人は個人主義が強い。

ただそうした調査を行った社会心理学者がしばしば指摘するのは、頭でよく考えて理知

的に判断する意識のレベルと、動機づけや感覚といった半ば無意識のレベルのものから

読み取れる傾向性は別だということです。半ば無意識のレベルでは、日本人は社会的関

係の中で生きているという実感があるほうが元気が出るようなんですね。

たとえば、個人競技のマラソンよりも仲間と一緒に競技する駅伝のほうが力が出るとい

うことです。卑近な例として私がよく使うのが、以前人気番組として有名だったNHKの「

プロジェクトX」という番組です。

柴山桂太(以下、柴山):あれは親父たちが泣く番組として有名でしたね。それだけ感

情移入できるんですね。

施:そうなんですよ。「プロジェクトX」は泣けるんです。現代の若者でもやっぱり箱根

駅伝などの中継はよく見るようですし、「プロジェクトX」のDVDを見せても感動する。

それに比べると後番組の「プロフェッショナル?仕事の流儀」は、感心はするけれども、

泣けない。それはおそらく「プロジェクトX」では組織に焦点が当たっていたのに対し、

「プロフェッショナル」では優れた個人に焦点を当てているからでしょう。半ば無意識

のレベルでは日本人はそういう、「おまえが組織の大黒柱だ」とか「意気に感じて頑張

ろう」みたいな関係性が相変わらず大好きなんです。

一方、明示的な意識のレベルでは近年、そういう関係に対して、「昭和の遺物だ。集団

主義だ。遅れていて、捨て去るべきものである」という考えが強い。

施:結果として、日本人が頭で考えて改革すればするほど、つまり個人主義的な改革を

意識的にやればやるほど、動機づけや感情をかき立てる基盤を壊してしまい、多くの人

にとって元気が出なくなってしまうという現象が起きているのではないか。

日本人の現状否定願望

佐藤健志(以下、佐藤):社会心理調査の事例にしても、「個人主義的な回答をするの

が〈正解〉だ」という意識があるのかもしれません。人間はしばしば、社会的なタテマ

エ、ないし自分がそうだと思っているものに合わせて振る舞いますから。本当は「プロ

ジェクトX」のほうが感動できるのに、人前ではつい「あれは昭和っぽくてベタだよ、『

プロフェッショナル』のほうがいいよ」と言ってしまうようなものです。

コーラスライン」という傑作ミュージカルをご存じでしょうか。この作品が日本で最

初に上演された際、稽古にかかわったオリジナルのスタッフが驚倒したという逸話が残

っています。主題歌「ワン」を、4列になって踊る見せ場があるんですが、列そのものが

重なってくるように振り付けられているので、全員が身体の角度をすみずみまでピッタ

リそろえないと、ぶつかりあってケガをしてしまう。ブロードウェイでは演出家が天井

に陣取り、ああだこうだと指示を出して、1週間かけてようやく仕上げました。

ところが日本版のキャストは、問題の振付を1日でマスターしたのです。で、「信じられ

ない、どうして君たちはすぐにできたんだ?!」。

集団主義が好きで、居心地のよさを覚え、ちゃんと結果も出せる。にもかかわらず、そ

の状態を否定しようとする。ここまで来ると自虐です。

中野剛志(以下、中野):日本人は現状否定願望、変身願望が異常に強いんじゃないで

しょうか。平成はバブル崩壊をきっかけにその自己否定を本気で実現しようとした時代

で、それによって日本そのものが拒食症のようになって憔悴してしまった。ニーチェ

はないけれども、回復しようとして、かえって憔悴を早める処方箋を選んでしまったの

ですね。

佐藤:〈居心地の良い状態に安住したり、得意なことに頼ったりしてはいけない〉とい

う思い込みが強いのでしょう。それらを捨て去るときに感じる抵抗感や苦痛こそ、レベ

ルアップのために乗り越えるべき壁であり、「逃げちゃダメだ、耐えて成長しなければ

いけない」と言い聞かせることに快感を覚える。

小泉総理が唱えた「痛みを伴う改革」など、その最たるものです。改革の必要があると

しても、痛みなんて、なしで済ませられるものなら、ないほうがいいに決まっているじ

ゃないですか。ところが「痛みを伴う」がつくと、「おっ、これは本物だ」という話に

なる。

佐藤:くだんのメンタリティが、民族性といった「先天的」なものか、明治以来、近代

化・欧米化を進める過程で学習した「後天的」なものかは、非常に面白いところですね

「国をリセットする」のは、本来恐ろしい発想のはずだ

中野:日本人の変身願望では、「何に変身したい」という未来志向よりも、「とにかく

これまでの自分を消したい」という自己否定のリセット願望が強いようです。今の安倍

総理も「日本をリセットする」とニューヨークで言ったことがあるし、橋下徹大阪市

長も「グレートリセット」と言っていた。昨年も小池百合子都知事が「リセットする」

と唱えていました。

国家や社会をリセットするというのは本来、恐ろしいことのはずです。もし本気で日本

をリセットしようとしたら、たとえば、日本語という言語そのものを変えてしまうとい

うことにもなる。あるいは、ヨーロッパがそうなりかかっていますが、移民を大量に入

れて国民性を入れ替えるといったことになる。「国をリセットする」というのは、そう

いう危険な革命思想です。

ところがみんな、そういった過激な言葉に恐怖を覚えることもなく聞いている。政治家

が「リセットする」と言ってくれると、なぜかうれしくなるというか、いい響きと感じ

る。そういう感性が今の国民の中にあるんでしょうね。

佐藤:日本語の廃止は明治から主張されています。むろん、敗戦後にも出ました。大抵

は英語にしろ、という話になるんですが、志賀直哉は1946年、「フランス語に変えろ」

と説いています。世界でいちばん美しい言葉だからとのことながら、ならばご本人はフ

ランス語に堪能だったのかというと、実は話せなかったらしい。

1990年代、インターネットが普及したときも出たんですよ。いわく、日本語の文字は全

角でないと読みにくい。ひきかえアルファベットは半角で大丈夫だ。すると2倍の情報を

伝達できるわけで、このままだとデジタル時代、欧米に対抗できなくなってしまう。だ

から英語にしろ!

佐藤:つまりは平成に入って、今までにない新しい動きが出てきたというより、近代の

日本人に潜んでいた自己否定願望が、バブル崩壊以後の経済的挫折をきっかけとして噴

出したのだと見ています。

施:ただそういう意識の表面だけの改革にも、そろそろ疲れが見えている気がします。2

017年にアメリカの調査会社が「世界のビジネスマンのエンゲージメント(仕事への熱意

度)調査」を行ったら、日本は「熱意あふれる社員」の割合が6%しかいなくて、世界最

下位クラスだったそうです。

それを聞いて驚きましたね。だって1990年代初めには、栄養剤の「リゲイン」のCMで「2

4時間戦えますか」なんて言っていたわけですよ。リゲインを作っている第一三共ヘルス

ケアのホームページに、CMのキャッチコピーの変遷が載っているんですが、最初は「24

時間戦えますか」だったものが、時代を追うに従って元気がなくなってきて、2014年の

コピーでは、「3、4時間戦えますか」になっているんですね(笑)。

バブルの頃から現在までの過程を振り返ると、日本では人々が暗黙の慣習に従って、そ

の場の状況に対して無意識的に、あまり考えずに対応していたときのほうが、実はうま

くいっていた。「アメリカ的な、自律的個人からなる社会をつくろう」と意識的に変え

ていったら、かえって悪くなって、みんな疲れてしまったという面があると思います。

佐藤:日本に限らず、社会が円滑に機能するうえでは、人々が暗黙のうちに持っている

知恵や約束事、あるいは慣行が重要な役割を果たします。これこそ文化や伝統の力の中

核です。ところがそれを、非合理的であるとか、定式化・数量化できないとか、果ては

欧米(特にアメリカ)で学んできた理論に合わないとかいった理由で、インテリがどん

どん切り捨てていった。

文化的バックグラウンドとは関係なく、誰でもわかるようマニュアル化されたものこそ

が真理だ、うまくマニュアルにできないものはどうせロクでもないに決まっているから

捨ててしまえ、そんな発想で改革を進めたのです。合理的・進歩的な行動だと思ってい

たのでしょうが、結果的に自分の基盤を突き崩すことになって、成果を上げるどころか

、何が何やらわからなくなってしまった。

「あうんの呼吸」こそ本来の政治だ

中野:政治の世界でも、自民党の昔の政治などはそれこそ古いスタイルで、あうんの呼

吸で、言葉で説明できない関係性の中で決めていくものだった。人間の目利きに長けた

老獪な連中が政治をやっていて、その人たちは政治学の理論なんかもちろん知らない。

それが古い自民党の政治だった。

いや、そもそも「政治」とは、理念や理論ではなく、あうんの呼吸でやるべきものなの

ですよ。それは日本に限った話ではなく、古今東西、そういうものだったのです。とこ

ろが改革を指向する人たちは、そういう本物の政治に対して、「ビジョンが見えない」

「理念がない」「不透明だ」「日本でしか通用しない」と言って否定してきた。彼らは

、政治そのものを否定してきたのです。

佐藤:平成の30年間は、自己否定を系統的にやってきた時代と呼べるでしょう。自己否

定に対する日本人のこだわりは、前にも指摘したとおり、今に始まったものではありま

せん。植民地化の不安におびえつつ、近代化をスタートさせた明治の時代にまで(少な

くとも)さかのぼることができますが、それが過熱・暴走したのが平成の改革ブームだ

ったわけです。

施:2012年に自民党に政権が戻ったときの総選挙では、「日本を取り戻す」というスロ

ーガンが打ち出され、そこに有権者が引かれた面があったはずです。まさしく古い自民

党的な、改革じゃない方向に行ってほしいと思って投票した人たちが多かったのではな

いか。おそらくそのだいぶ前から日本全体に「改革疲れ」が出てきていたと思うんです

中野:それが民主党の人気がなくなった理由ですよね。政権交代そのものがまさに改革

でしたから。細川政権のときもそうだった。改革派が言っていた「こうすればいいのだ

」という政策を実際に実行するとどうなるのか。改革派が悲願としてきた政権交代を実

際にやってみたら、どうなるのか。その現実を、非自民党政権が実際に見せてしまった

佐藤:第2次安倍内閣誕生以後の選挙結果を見ていると、今や国民は55年体制の復活を求

めているとしか思えません。民主党政権への幻滅もあって、「やはり自民党でなければ

、まともな政権運営はできない」という結論に達しているのではないか。

野党は政権奪取なんて洒落たことは考えず、いわゆる「3分の1勢力」、すなわち改憲

議を阻止できるだけの存在であれば十分という次第。もっとも最近では、これすら崩れ

ましたね。「野党は単純に不要」という、55年体制以上に55年体制的な心情が生まれて

いる気配を感じます。

施:以前、中野さんは「今こそ古い自民党政治を!」という文章を書いていましたね。

あれは「いつか来た道に戻ろう」という話ですね。

中野:ええ。ただ政治家でも官僚でも改革派の人たちはみな、中選挙区制時代の政治家

や政治のやり方をものすごく嫌っています。ほとんど親の仇のようです。今の政治家で

トップになっている改革派の人たちは「あの頃は本当に汚らしい金権政治をやっていて

、あんなのは二度といやだ」と口をそろえますね。

おそらくビジネスマンもそうなんじゃないでしょうか。今は今で問題かもしれないけれ

ども、自分が入社した頃の会社のあり方は本当に嫌で、なんとか変えなければいけなか

ったんだというような、ルサンチマンを強く感じます。

糾弾を受け入れる懐の深さ

施:今の日本人はたとえば田中角栄のような、意見の異なる人も受け入れて、豪放磊落

(ごうほうらいらく)に物事を進めるリーダーのイメージを持てていない感じがするん

です。現政権にしても意見の近い人間ばかりで固めているし、「排除」と言った小池百

合子にしても、政治家としては冷たい印象がありますね。

佐藤:近年の与党はまるで、かつての野党のように振る舞っています。昔の自民党の総

裁たちには、「何だかんだ言っても、左翼や反対派の連中まで含めて、国全体をまとめ

上げなければならない。それが政権を担う者の義務だ」という意識がありました。

漫画家の長谷川町子さんの自伝『サザエさん?うちあけ話』には、関連して傑作な箇所が

あります。長谷川さん、犬や猫が捨てられているのを見ると、どうしても拾いたくなる

のだそうで、そのため家で動物が悪さをするたび、家族から文句を言われる。しかるに

これを、「国会における与党のごとく、あらゆる糾弾を一身に浴びせかけられています

」と形容しているんですよ(表記を一部変更、以下同じ)。

「まったく、たまったもんじゃありません」とは長谷川さんの弁ですが、裏を返せば、

当時の与党政治家は糾弾に耐えたわけです。まさに「実るほど頭を垂れる稲穂かな」。

ところが今は「糾弾するヤツは敵対勢力だから、徹底排除してかまわない」という発想

になっている。

これはもともと、政権を取る見込み、ないしおそれがなかった55年体制下の野党の振る

舞いです。「国家権力は敵であり、けしからんものなのだから、とにかく打倒の対象だ

」という理屈。それが国家権力を担う側にまで蔓延するに至った。2回も政権を失うと、

振る舞いが野党レベルに落ちるんでしょうか。

政治における土着性の喪失

佐藤:一方、田中角栄は土着の人でもありました。「自分だけが金持ちになっても、近

所隣が貧乏では、結局、やっていけない。(みんなにも)裕福になってもらうことだ」

と発言しています。宮沢賢治ではありませんが、「地域全体の幸福なくして、個人の幸

福はありえない」。これも今の政治家には、なかなか見られない感性です。

施:とりわけ最近は地方の声が取り上げられなくなってきている感じがあります。

佐藤:平成は地方が疲弊していく時代でもありました。竹下登内閣が「ふるさと創生」

と銘打って、全国の市町村に一律1億円を配ると決めたのが昭和の終わり(1988年)。そ

の後の地方の歴史は、全体として見るかぎり、衰退と没落の歴史だと言って過言ではな

いでしょう。

施:2017年の希望の党の結成でも、私などは現役の都知事が国政政党の代表を兼ねると

いうことに対して、「そんな党ができたら、東京はじめ大都会の利益ばかり国政の場で

主張することになるだろう。それでいいのか」と感じたのですが、メディアから明確な

疑問の声は上がってきませんでした。

柴山:それだけ日本で大都市化が進んでいるということでしょう。今、日本の全人口の6

割から7割が三大都市圏に居住しており、東京圏だけで日本全体の3分の1あるわけです。

政治家もメディア関係者も都会出身者ばかりですから。

平成30年間に都市化がさらに進行したことで、地方の存在感の低下が決定的になった印

象があります。今度、安倍政権が大学の無償化を実行すれば、学生がますます東京に集

まって、地方はさらに空洞化するんじゃないかと思いますね。

施:むしろそのためにやっているんだと感じますね、大学無償化というのは。土着性の

ある政策は、最近はまったく出てこない。地方創生策にしても新自由主義的な政策ばか

りです。

佐藤:やはり、土着性を持った政治家がいなくなったことが大きいと思います。田中角

栄には名言がいろいろあるものの、特に好きなのが「吹雪のときはしばし待つ。雪は人

間を全部、運命論者に変える」。逆境のときはじっと耐えるということですが、豪雪地

帯で育った人間ならではの言葉でしょう。(たとえば)鹿児島の政治家が、このフレー

ズを口にする光景が想像できますか?

田中さんは学歴がなかった代わり、越後の風土という基盤を持っていた。これだって、

いやこのほうが、立派な教養と呼ぶに値します。そういう人が1970年代初頭、「日本列

島改造論」を唱えた。

その約20年後、小沢一郎さんが『日本改造計画』という、よく似たタイトルの本を出す

。ところがこちらは、日本の後に「列島」がついていません。改造されるのは日本であ

って、日本列島ではないのです。

文字どおり、議論から地理的・物理的な基盤がなくなってしまった。これでは土着性も

何もありません。田中さんと小沢さん、あるいは昭和と平成の違いは、「風土の喪失」

が進んだことにあるのではないでしょうか。

施:1つには選挙制度を変えてしまった影響もありますよね。かつての中選挙区制の時代

には地域のボス的な人たちが、しっかりした後援会組織を持ってやっていた。地域の政

治地盤に根ざしていなければ当選できなかった。それが小選挙区制になったら、落下傘

候補みたいな人でも、公認を受ければ当選できるようになってしまった。

佐藤:小選挙区制になったのは、自民党が下野しているときですね。政権交代が起こり

やすいよう、あえて不安定なシステムを作ったものの、これがみごとに裏目に出た。平

成の改革は、本当にロクな結果になりません。

「土着の政治」で日本経済は復活する

中野:関連して言いたいのは、「格差を縮小して、地方を大事にする土着の政治をやれ

ば、経済は今よりも絶対に成長する」ということです。経済が東京に一極集中すれば、

東京に立地した企業は効率がいいかもしれませんけれども、日本経済全体として効率が

いいかどうかは怪しい。格差が拡大すれば、消費性向が高い中・低所得者の人々が貧し

くなるわけですから、国全体の需要は伸びなくなるからです。

田中角栄の列島改造じゃないですけれども、1960年代、1970年代までの日本はなんとか

地方を豊かにしようとして道路や鉄道を整備したり、あるいは累進課税によって格差を

縮小しようとしたりしていた。そうやっていたときのほうが経済成長率は明らかに高か

ったわけです。平成の一連の構造改革は、経済成長を目指してやったことですが、しか

し、実際に起きた結果は、経済が成長しなくなったということでした。彼ら改革派が否

定してきた昔の格差是正政策のほうが、実は経済を成長させるのです。

このように、平成の改革の失敗は明らかなのですが、しかし、改革派は「だからといっ

て昔に戻ればいいってものではないだろう」と、考え方を改めようとはしませんね。し

かし、政治も経済も、昔のほうがよかったという事実は否定できない。ならば、最低限

、改革の流れを止めることから始めてはどうでしょうかね。