西城秀樹、葬儀弔辞野口五郎。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 昭和の後期を新御三家として若者のハートをつかんで

話すことのなかったダイスター「西城秀樹」63歳の短い生涯を

惜しまれながらの行き急いだ人生でもありました。

 みこちゃんはあまり得意なファンではありませんでしたがその晩年の頑張りとその情

熱には関心を寄せて拝見してもいました。

 葬儀の弔辞を親友でもあった「野口五郎」さんが述べた言葉の一語一句が生前の人間

性を余すところなく文面に織り込められていたように思え

思わず目頭が熱くもなりました。

二度目の卒中発作で、肉体の弱体化の中一生懸命リハビリを受け、舞台に立つための筋

力の増進のために叫びたくなるような訓練を積み重ね

ぶたいにたたれていたのですね?

 舞台に立つための奮い立たせるかのような内容が五郎さんの弔辞にも込められていま

した。

風でも吹けばすぐにでも倒れこみそうになる筋力で

一生懸命立ち続けていたのだとは誰でも

知る由もなかったと思います。

西城さんには延命措置のお話もあったようですが

3人のお子さんが「パパは、一生懸命頑張ったんだから、もう楽にしてあげたい」との声に

奥様が決断されたとのことでした。

 どうか残された家族が無事に健やかでありますようにと

静かに合掌したいと思います。

     アサヒコムより。

「秀樹、僕はうらやましかったよ」野口五郎さん弔辞全文 (5/26)

 西城秀樹さんの告別式で野口五郎さんが読み上げた弔辞は次の通り。

「秀樹を兄貴と」郷ひろみさん、最初で最後の手紙全文

「秀樹」芸名から法名に 告別式 弔辞は野口さん郷さん

     ◇

 秀樹、君が突然去ってしまったことを知ってから何日が経っただろうか。皆さんに、

気持ちの整理がつくまで少し時間を下さい。そうお願いしたのだけど、どうやってこの

現実を受け止めて良いのか。いまだに君の言葉をいろんなことを思い出して、泣いてば

かりいる。

 秀樹との46年間は、簡単に語りきれるものではありません。こんな風に君への弔辞

を読むなんて考えてもいなかった。僕にとって、君は本当に特別な存在だった。

 ある時は兄のようでもあり、ある時は弟のようでもあり、親友でもあり、ライバルで

もあって、いつも怒るのは僕で、君は怒ることなく全部受け止めてくれて。いま思うと

僕と君との違いは、心の大きさが違うよね。つくづくそう思うよ。いつも僕が言うこと

を大事に大事に聞いてくれて、何でそんなに信用してくれていたの。

 訃報(ふほう)を聞いて君の家に向かう途中で、僕は突然思い出して妻に言った。秀

樹の歌で「ブーメランストリート」という曲があって、ブーメランだから「きっとあな

たは戻って来るだろう」って歌詞だけど、でも戻ってこなかった人を、アンサーソング

として「ブーメランストレート」ってどう、って言ったら、それ良いねって、秀樹、大

笑いして。そしたら彼本当に「ブーメランストレート」っていう曲を出してしまったん

だよ。

 君の家に着き、君に手を合わせ、奥さんの美紀さんと話し始めたら、秀樹の曲をかけ

続けていたディスプレーから突然「ブーメランストレート」が流れてきた。数百曲もあ

る君の曲の中で、五郎、来てくれたね、君が僕だけに分かる合図を送ってくれたのかな

ってそう思ったよ。

 30年ほど前に、君は「チャリティーコンサートをするんだけど、その時の曲を作っ

て欲しい」って、突然言い出した。

 「秀樹、僕は人の曲は作らないって知ってるだろ」

 「うん、だから作って」

 「秀樹、だから作っては日本語変だから」

 「うん、最後にみんなで歌う曲作って欲しいんだよ」

 「秀樹、悪いけど無理だから。それ出来ないから」

 「分かってる。一応締め切りはいついつだから」

 「秀樹、それ出来ないからね」って別れたのに。

 締め切り日ぎりぎりにパジャマを着て譜面とデモ音源を君の家に届けた僕に、まるで

僕が作ってくるのが当たり前のように、玄関先で「ありがとね」って君は笑顔でひと言

。完全に見透かされてるよね。

 今年になってから、その曲がシングルカットされてるのを知って、僕はそれまで知ら

なかったんだよ。シングルカットされているのは。君のマネジャーにお願いして、音源

もらって、マルチがないからCDから君の声だけ取り出して、今年2月の僕のコンサー

トでデュエットした。

 なぜ今年だったんだろう。不思議でならない。

 コンサートを見に来てくださった君のファンも喜んでくださった、って奥さんから聞

きました。

 デビューしてアイドルと呼ばれるようになった僕らは、次はその席を後輩に譲らなけ

れば、そして次の高みを目指さなければと考えていた。その方向が僕らは一緒だった。

同じ方向を目指していた。秀樹は決してアクション歌手ではないし、本物のラブソング

を届ける歌手を目指していたことを、僕は知っている。

 1993年、初めての「ふたりのビッグショー」での共演。一緒に歌った「Unch

ained Melody」「Smoke Gets In Your Eyes」ハ

ーモニーの高いパートは僕で、最後に格好良く決めるのは秀樹。でも僕はそんな秀樹が

大好きだった。本当に格好良いと思っていた。

 お互い独身時代が長かったから何でも話すようになってゴルフも一緒に行った。君が

車で迎えに来てくれて、僕がおにぎりとみそ汁を用意して、夫婦かなんて言いあって。

僕が「秀樹、結婚するから」って言った時の驚いた顔を忘れない。2月に僕が披露宴を

したときに、「おめでとう」と君に握手を求められた瞬間、僕にはすぐ分かったよ。あ

、こいつ結婚するって。案の定、5カ月後に美紀さんと結婚した。

 秋も深まったある日、妻が「もしかして子どもが出来たかも」と言いだし、驚いた僕

は明日病院に行って検査してもらおうと二人で話した。そんなとき、君から突然の電話

。「五郎、まだ誰にも言ってないんだけど、俺、子どもが出来た」。生まれてみれば同

じ女の子で君んちが6月3日、僕んちが6月5日。まじかこれ。当然娘たちの初節句

ひな祭りも一緒に祝ったよね。

 3年前、秀樹の還暦パーティーに出て、サプライズでケーキを持ってステージに出さ

せて頂いた時の秀樹のびっくりした顔、今でも忘れられません。

 さかのぼること44年前、1974年。この年僕が「甘い生活」でレコード大賞歌唱

賞を取れると下馬評だったけど、君の「傷だらけのローラ」が受賞。もちろん君は欲し

かった賞だし、当然うれしかったと思う。でも、君は僕の前では喜んだりしなかった。

僕を気遣ったんだと思う。それから2年後、二人で受賞した。そのときは握手して二人

で抱き合った。

 そして40年後、還暦パーティーで僕が「抱いていいか」。「何だよ」と言われたけ

ど、僕はそんな君を抱きしめた。その時、君は僕のことを一瞬抱きしめ返そうとした。

その瞬間に君の体の全体重が僕にかかった。それは僕にしか分からない。心の中で、「

秀樹、大丈夫だよ。僕は大丈夫だからね」そう思った。それと同時に、僕の全身が震え

た。こんなぎりぎりで立ってたのか。こんな状態で、ファンの皆さんの前で立ってたの

か。そこまでして、立とうとしていたのか。なんてすごいやつだ。

 彼の大きさに驚いて、一瞬頭が真っ白になって、彼のコンサートなのに、サプライズ

で来ている僕が「西城秀樹です」って秀樹のファンの皆様に彼を紹介してしまった。

 秀樹ほど、天真爛漫(てんしんらんまん)という言葉がぴったりな人は僕はこれまで

に会ったことがない。何事にもまっすぐで、前向きで、おおらかで。出会う人を全て魅

了する優しさと全てを受け入れる潔さとたくましさ。そんな君を慕う後輩がどんなにた

くさんいたか。僕はうらやましかったよ。

 僕もひろみも、秀樹の代わりにはなれないけど、まだしばらくは頑張って歌うからね

。おまえの分も歌い続けるからね。そして君を慕ってくれた後輩たちとともに、僕らの

愛した秀樹の素晴らしさを語っていこうと思います。何よりも君を愛し、支え続けたフ

ァンの方々とともに。

 秀樹、お疲れ様。

 そして、ありがとう。

 もう、リハビリしなくて良いからね。

 もう頑張らなくて良いから。

 君のかわいい子どもたち、家族を、いつも見守ってあげて欲しい。そしておまえの思

うラブソングを天国で極めてくれ。

 秀樹、お疲れ様。

 そしてありがとう。

 平成30年5月26日、野口五郎

「秀樹を兄貴と」郷ひろみさん、最初で最後の手紙全文 (5/26)

 西城秀樹さんの告別式で野口さんに続き、郷ひろみさんが弔辞を読んだ。全文は以下の通り。

「秀樹、僕はうらやましかったよ」野口五郎さん弔辞全文

特集:西城秀樹さん死去

     ◇

 これが、僕から秀樹に送る、最初で最後の手紙になります。

 弔辞。秀樹、五郎、そして、僕。「新御三家」と呼ばれて、気がついたら45年以上の月日が流れていました。秀樹、五郎は僕より先にデビューしていて、何もわからず芸能界に飛び込んだ僕は、2人の背中を見て、歩んでいくことがやっとでした。

 あのころ、毎日のように音楽番組があって、2人が当たり前のようにそばにいて、でも僕の中では、2人のことをライバルと思ったことは一度もなく、同じ世代を駆け抜けていく同志という思いでした。

 1978年、日本レコード大賞で秀樹、五郎の2人が金賞を受賞し、残念ながら僕一人だけ、名前を呼ばれることはありませんでした。でも、その時の思いが自身のバネになって、翌年日本レコード大賞大衆賞を、「あなたがいたから僕がいた」で受賞することが出来ました。人は頑張れば、努力すれば、必ずかなうんだ。それを、教えてくれたのは2人の存在です。

 あるとき、秀樹が40度近い高熱が出たにもかかわらず、ステージを務め、最後は倒れるように歌を歌い上げた。本当にファンの人のことをまず大事に考えて、自分の人生をダイナミックに生きる人なんだなって痛感しました。

 そして今から2年前、2016年、ある雑誌の対談で本当に久しぶりに秀樹、五郎、僕、「新御三家」が顔を合わせました。秀樹は大病を患ったにもかかわらず、力を振り絞って、そこに駆けつけ、そして一つ一つの言葉を大切に、伝えてくれる。僕はとても心を打たれました。

 残念ながら、それが秀樹を見た最後になってしまいました。あの時、対談の中で、

 ここまで歌を続けてきたんだから感謝っていう気持ちをもってこれからも歌い続けていこう。

 そう締めくくったにもかかわらず、秀樹は天国に行ってしまいました。本当に残念です。

 日本中の人々から愛された秀樹の歌、そして笑顔。これは、これからも人々の心の中に、しっかりと刻まれていくことでしょう。

 僕は秀樹のことを兄貴という風に思っていました。というか、まず最初にデビューした五郎が長男で、秀樹が次男。僕が三男。その思いは今でも変わっていません。これからも、秀樹の背中を見て、心の中でそう思って、ずっと歌を歌い続けていきたいと思っています。

 今まで、本当にありがとう。そして、安らかに眠って下さい。