昭和天皇、涙の聖断。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 昭和天皇終戦に対する思いに触れ

胸つまる思い出拝読いたしました。

 軍隊のどこまでも戦争に駆り立てる強い決意に対し

それを統括することは想像に余りある思いがおありであったろうと妄想しました。

真珠湾攻撃から半年が経とうとしていた1942年5月、日本軍は「ミッドウェー海戦」で敗

北。次第に太平洋における制海・制空権を喪失。戦争の主導権を失い、戦局の劣勢が方

向づけられた。

44年7月、日本軍のサイパン島守備隊が玉砕し、同年10月の「レイテ沖海戦」で連合艦隊

は壊滅。戦争の趨勢は決定的となりつつあった。

45年2月、元首相の近衛文麿昭和天皇に戦争終結を進言した。いわゆる「近衛上奏文」

だ。

「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候。(中略)国体護持の立場よりすれば、一日も

速に戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候」

ただ、「一撃和平」「本土決戦」を叫ぶ軍を抑えることは叶わなかった。

45年3月、沖縄戦がはじまる。この時、アメリカ軍55万人に対し、迎え撃った日本軍はわ

ずか11万人。住民も巻き込んだ壮絶な戦いで、日本側は軍・民合わせて18万人もの命を

失った。沖縄県民は4人に1人、12万人以上が犠牲となった。

okinawa

沖縄南部海岸で米軍戦車による洞穴への火炎放射

東京をはじめ、主要都市も空襲の標的となった。幾多の犠牲を重ねた後、8月6日に広島

、9日には長崎に原子爆弾が落とされた。和平仲介の望みをかけたソ連も対日参戦し、も

はや戦況は絶望的となった。

昭和天皇は、さらなる戦闘を主張する軍部を抑え、8月9日と14日、2度にわたる御前会議

を経て「ポツダム宣言」受諾による早期講和の意思を表明。いわゆる「聖断」を下した

。この時、昭和天皇は以下のように述べ、自らラジオで終戦を国民に伝える意向も明ら

かにした。

「自分の非常の決意には変わりない。内外の情勢、国内の情態、彼我国力戦力より判断

して軽々に考えたものではない。国体については敵も認めていると思う。毛頭不安なし

。敵の保障占領に関しては一抹の不安がないではないが、戦争を継続すれば国体も国家

も将来もなくなる。即ちもとも子もなくなる。今停戦せば将来発展の根基は残る。武装

解除は堪え得ないが、国家と国民の幸福の為には明治大帝が三国干渉に対すると同様の

気持ちでやらねばならぬ。どうか賛成してくれ。陸海軍の統制も困難があろう。自分自

ら『ラヂオ』で放送してもよろしい。速に詔書を出してこの心持を伝えよ」

okunko

1945年8月14日「御前会議」が開かれた御文庫附属庫の会議室(千代田区・皇居内)

「何遍も両方の頬をお拭いに」「陛下ご自身もお泣きに」 内閣書記官長の証言

hirohito

大元帥と立憲君主、2つの役割を担っていた昭和天皇

大元帥と立憲君主、2つの役割を担っていた昭和天皇は、「統帥権」に基づき発した徹底

抗戦の大元帥命令を、立憲君主として持つ「和平の大権」をもって否定した。また、天

皇の権威が維持されているうちに、天皇の自らの決定によってポツダム宣言を受諾が決

まったことは、戦後の「国体」の護持へとつながった。

当時、鈴木貫太郎内閣の内閣書記官長だった迫水久常氏は、14日の御前会議で「聖断」

を下した昭和天皇の様子をこう語っている。

陛下は白い手袋をおはめになった御手で、何遍も両方の頬をお拭いになりました。陛下

ご自身もお泣きになっておられたのであります。

太田文部大臣がおっしゃいましたが、岡田厚生大臣のごときは、椅子に座っておるのが

堪え難くお泣きになったのを私は覚えております。誰も泣かない者はありませんでした

陛下は「陸海軍においてもし必要ならば、自分がどこに行ってでも説き諭す。軍隊は非

常な衝撃を受けるであろうから、どこにでも行って自分は説き諭してもよろしい」と仰

せられました。「必要であるならば、マイクの前に立って直接国民に諭してもよろしい

」というお言葉もそのときにあったのであります。

陛下のお言葉が終わりまして、鈴木総理大臣が立ちまして、陛下の思し召しを承ったこ

とを申し上げまして、陛下はご退席になりました。

     産経より。

昭和天皇の87年】前例なき御前会議 陸海軍両総長は泣きながら抗戦を訴えた (201

8年5月19日 07:00)

涙の聖断(1)

 帝都に空襲警報が鳴り響く昭和20年8月13日の夕刻、空から落ちてきたのは、爆

弾ではなく紙だった。

 「日本の皆様 私共は本日皆様に爆弾を投下するために来たのではありません。お国

の政府が申込んだ降伏条件をアメリカ、イギリス、支那並にソビエット連邦を代表して

アメリカ政府が送りました回答を皆様にお知らせするために、このビラを投下します」

 翌14日の早朝、米軍機B-29がビラを散布したとの情報を得た内大臣木戸幸一

は愕然とした。政府の正式発表より前に降伏が広く知られれば、国内は大混乱となり、

それに乗じて抗戦派などが暴発する恐れもある。

 首相の鈴木貫太郎も、同じ思いだった。もはや事態は一刻の猶予も許されず、内閣か

ら正式な手続きをとって御前会議を開くのでは間に合わない。

 鈴木は急ぎ木戸を訪ね、相談の上、昭和天皇の決心にすがることにした。

 以下、『昭和天皇実録』が書く。

 《(14日)午前八時三十分、(昭和天皇は)御文庫において内大臣木戸幸一に謁を

賜い、米軍機がバーンズ回答(※1)の翻訳文を伝単(宣伝ビラ)として散布しつつあ

りとの情報に鑑み、この状況にて日を経ることは国内が混乱に陥る恐れがある旨の言上

を受けられ、戦争終結への極めて固い御決意を示される。引き続き、特に思召しを以て

内閣総理大臣鈴木貫太郎及び内大臣に列立の謁を賜う》(34巻43頁)

 戦前は「宮中・府中(政府)の別」が厳しく、首相と内大臣が並んで拝謁するのは初

めてだ。

 昭和天皇もまた、非常の覚悟だったのだろう。

 このとき鈴木は、内閣からの奏請ではなく、天皇の意向による御前会議開催を求め、

その場で許された。これも前例のないことだった。

 続いて昭和天皇は、在京の陸海軍元帥を宮中に集めた。

 《午前十時二十分、御文庫に元帥陸軍大将杉山元・同畑俊六、少時遅れて参殿の元帥

海軍大将永野修身をお召しになり、三十分にわたり謁を賜う。終戦の御決心をお示しに

なり、三名の所見を御下問になる》(34巻44頁)

 これに対し杉山と永野は徹底抗戦を主張、畑は交渉継続を求めたが、昭和天皇は《戦

終結は深慮の末の決定につき、その実行に元帥も協力すべき旨を仰せになる》(同)

× × ×

 同日午前10時50分、昭和天皇の異例の「思召し」により、全閣僚と陸海両総長、

両軍務局長、枢密院議長ら政府軍部の全首脳が御文庫附属室に集められた。閣僚らは正

装する間もなく、まちまちの背広姿だったという。

 御文庫附属室は、皇居の地下10メートルにある堅固な防空施設だ。10トン級の超

大型爆弾にも耐えうる構造で、会議室2つ、控室2つが、厚さ1メートルのコンクリー

ト壁で仕切られている(※2)。

 この日、会議室の正面に小机と玉座が置かれ、向かい合って椅子が3列。前列には首

相、枢密院議長、外相、陸海両相、両総長らが、中列には残りの閣僚らが、後列には内

閣書記官長、総合計画局長官、陸海両軍務局長らが座った。

 これから始まる帝国最後の御前会議で、日本の運命が決まるのだ。外光の届かない地

下の空間を、静寂と緊張が満たした。

 午前11時2分、侍従武官長を従え、昭和天皇が入室する。一同は起立し、首相の鈴

木が玉座の前に進んだ。

 《首相は前回の御前会議以後の最高戦争指導会議及び閣議の経過につき説明し、この

席上において改めて無条件受諾に反対する者の意見を御聴取の上、重ねて御聖断を下さ

れたき旨を言上する》(34巻44~45頁)

 鈴木から発言を促され、梅津美治郎参謀総長阿南惟幾(これちか)陸相は、連合国

の回答では国体護持に不安があること、再照会すべきであること、聞き入れられないな

ら抗戦して死中に活を求めることを、声涙で訴えた。

 豊田副武(そえむ)軍令部総長も泣いていた。

 「今日までの戦争遂行において、海軍の努力の足らなかったことは認めます。陸海軍

の共同も決して十分ではありませんでした。これからは過ちを改め、心を入れ替え、最

後の奮闘をいたしたいと思います。本土決戦の準備はできております。いま一度、戦争

を継続することをお願い申し上げます」

 三人の発言のあと、再び静寂。

 しばらくして、昭和天皇が口を開いた--。(社会部編集委員 川瀬弘至 毎週土曜

、日曜掲載)

(※1)バーンズ回答 国体護持(天皇の地位の保全)を唯一絶対の条件とし、ポツダ

ム宣言を受諾するとした日本政府に対する連合国の回答。対日強硬派で知られる米国務

長官ジェームス・バーンズの書簡として発表されたことから、この名がついた。ポツダ

ム宣言を補足する5つの条項が示されたが、このうち第1項の「天皇は連合軍最高司令

官にsubject to(従属)する」と、第4項の「日本の政治形態は日本国民の自由に表明

する意思により決定される」との文言が、国体護持の条件を拒絶したとも受け取られ、

政府と軍部は大混乱に陥った。

(※2)御文庫付属室 日米開戦前の昭和16年9月、陸軍築城部本部が皇居の吹上御

苑内に造営した防空施設。陸軍は当時、昭和天皇の住居を兼ねた地上1階地下2階の防

空施設「御文庫」の建設を進めており、それが完成するまでの予備施設として、付属室

がつくられた。17年7月に御文庫が完成。500キロ爆弾に耐えうる構造で、付属室

との間に地下道も作られたが、米軍がヒトラーの山荘を10トン爆弾で空襲したとの情

報があり、陸軍は20年6~7月、付属室の補強工事を実施。超大型爆弾にも耐えうる

日本最強の防空施設とした

【参考・引用文献】

宮内庁編『昭和天皇実録』34巻

◯外務省編『終戦史録』(官公庁資料編纂会)

○下村海南『終戦秘史』(大日本雄弁会講談社

池田純久『日本の曲り角 軍閥の悲劇と最後の御前会議』(千城出版)