サリン被害者代表、高橋さんの素顔

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 思い起こすのも悲しすぎるほどの

凄惨で胸を締め付けられずにはおかない

オームサリン事件のあまりにも長い歳月に驚きます。

すでにその事件を知らない人が社会人としてご活躍されています。

テレビは来る日も来る日もオーム事件一色であったように思います。

 オームの信者の救出に尽力されていた

坂本さん一家殺害に始まり、思考回路が破壊されたかのような

事件ばかりが繰り広げられた。

 優秀な能力の持ち主ばかりがなぜにマインドコントロールされるのか

不思議に思えた社会テーマともなりました。

  オーム被害者でもある高橋さんの悲劇からの再出発には言葉では

計り知れない苦悩の日々が容易に想像もできます。

 若者の進行に対するブレーキになればうれしいです。

被害代表者として失われたものはあまりあるものもありますが

人の良きご縁にも多く遭遇されたのだとも妄想します。

 かわいい孫とゆっくり接触することなく、奔走された事件との対峙

いばらの道続きとは存じますが多くの心の道しるべとしてのご活躍を

これからも健康の中、お続けいただけますよう願ってやみません。

     東洋経済より。

妻として犯罪被害者として…高橋さんの32年 地下鉄サリン事件「被害者の会代表」の真実

想像力欠如社会地下鉄サリン事件被害者の会代表、高橋シズヱさん(70)。多くの人は

、報道カメラの前で遺族の気持ちや裁判について堂々と語る彼女を思い出すだろう。し

かし、大学生である私の心をつかんだのは、テレビでは見せない彼女のはじける笑顔だ

った。「48年間、本当に普通の主婦だったのよ」。何の挫折もしたことがなかったと、

あっけらかんと話す。

そんな当たり前だった日常を、1995年に起きた地下鉄サリン事件が奪ってしまった。結

婚してから事件後までの32年間、シズヱさんが暮らした北千住へ足を運ぶと、家族の楽

しい思い出がよみがえる。しかし、それと同時に事件後の心苦しさも混ざり合いながら

浮かび上がってくる。「地下鉄サリン事件被害者の会代表」として生きづらさを感じる

日々。そんな彼女を支え続けたのは、他でもなく事件で亡くなった夫の一正さんの存在

だった。事件当時を知らない世代だからこそ見つけられた、等身大のシズヱさんを映し

出す。

事件を知らない私が、初めて彼女に会った日

「この会を開催させていただきました、高橋シズヱです。まず、注意点があります。今

回の会で、気分が悪くなってしまう方は別室を用意してありますので、そちらで休んで

ください」。

2017年3月19日。「地下鉄サリン事件22年のつどい」と掲げられたホワイトボードの前で

、そう切り出した。東京の中心部にあるビルの会議室。彼女の目の前には、私を含む10

人あまりの学生と、多くの地下鉄サリン事件被害者の会の関係者、そして後ろにはずら

っと並んだ報道陣。100人以上の視線とカメラに見つめられながらも、しゃんと立ち、ま

っすぐに前を見つめて言葉を紡ぐシズヱさん。地下鉄サリン事件で、当時営団地下鉄

現在の東京メトロ霞が関駅の助役だった夫の一正さんを亡くし、今は被害者の会の責

任者として活動を続けている。私が知っているのはそれだけだった。

「気分が悪くなる」とは、PTSDを抱えた人たちに対する配慮だということは、後で合点

がいった。そのくらい、何も知らなかった。当時まだ生まれてもいなかった私にとって

は、無縁で、難しくて、怖くて得体の知れない事件……そう思っていた。

そもそも、「地下鉄サリン事件22年のつどい」へ足を運んだのは、大学の新聞学科1年生

として、取材活動を体験するためだった。しかも、継続して取材することが前提だった

わけではなく、あくまでこの1日のルポを書くことだけが求められた課題だった。

正直に言ってしまえば、地下鉄サリン事件について特別強い関心があったわけではない

。小さい頃、交番を通りかかるたびに横目で見ていた指名手配のポスターの記憶。私が

生まれるよりも前に起きたテロ事件。その程度の認識だ。なので、22年のつどいで話題

にあがったPTSDというものも最初はどういう症状なのか実感がわかないし、VXというも

のが北朝鮮による暗殺で使われたものと同じだということも知らなかった。

しかし、この時から私の胸にあったのは、「被害者と言われる人たちの気持ちを聴いて

みたい」ということだ。生まれて20年間、身近な人を失ったことなどなく、両親も自分

も健康な、比較的恵まれた生活をしてきた。そんな私が、「犯罪被害者」と呼ばれる人

とうまくコミュニケーションができるのか。プロの報道カメラや会場の雰囲気、何より

シズヱさんの真剣なまなざしに圧倒されつつ、緊張で汗ばむ手でペンと手帳を握りしめ

てシズヱさんに駆け寄った。

直接話した第一印象は「よく考えて、言葉を選びながら話す人」だった。こちらの質問

の意図が伝わらなければきちんと聞き直してくれるし、焦ってしどろもどろになっても

落ち着いて待っていてくれる。事件後生まれた若い学生も来場していたことに触れると

「最近は前より活動を控えているんです。でも、若い人のいる大学などからの講演依頼

は、お願いがあれば必ず行くようにしています」と話す。今まで冷静に質問に答えてい

た声のトーンが少し高くなり、言葉に力が入る。

思わずはっとした。事件当時オウム真理教に所属していた信者の多くは、私のような20

歳前後の学生たち。再発を防ぐために彼女が一生懸命伝えようとしている「若い人」と

は、まさに自分たちのことなのだ。「もっと知りたい、知らなくちゃいけない」と思え

たのは、この瞬間からかもしれない。少なくとも、何もわからなかった自分だからこそ

相手の気持ちを知るべきだと思えたのだ。

継続的にシズヱさんを取材することに

こうして取材活動に興味を持った私は、2年生になった春からドキュメンタリーを作るゼ

ミに入り、継続的にシズヱさんを取材することになった。

「怖そう」、「難しそう」という理由で敬遠する仲間もいたし、実際にそういう気持ち

は私にもあった。だが、私はあの日のもやもやした気持ちをそのままにしたくなかった

のだ。ドキュメンタリーはおろか社会人相手に取材をしたことなど一度もなかった私は

、まずは大学で直接話をする機会を設けてもらった。

スーツ姿でがちがちに緊張しながらシズヱさんを迎えに行く。シズヱさんは、周囲から

少し離れてJR四ツ谷駅前で待っていた。先日の集会での全身黒にまとめた服装とは全く

違って、白地にピンクと黄色の花があしらわれたシャツが可愛らしい。声をかけると、

にっこりと柔らかく笑って「高橋シズヱです」と応じてくれた。

これまた前回とは違った明るいトーンで「この前東京タワーまで歩いて行っちゃった」

、「被害者の会で知り合った友達とこの前旅行に行ってね」などと近況を話し、旅行先

の様々な写真も見せてくれる。スマートフォンはもちろん、LINEやFacebookといったSNS

を使いこなす姿にも驚いた。? ??

地下鉄サリン事件関連のニュースで硬い表情でテレビに登場する彼女が、笑い声をあげ

ながら私生活を話す様子になんだか面食らってしまった。第一印象とは真逆な、快活な

しゃべり方。なぜこんなにもギャップを感じるのだろうか……不思議に思った。

「聞きたいことは、聞いてください。今更、答えたくないことなんてありませんから」

。私が最初の質問をするよりも前に、シズヱさんははっきりと言った。無知なら無知で

いい。むしろ、事件を知らない人がどう思っているのかを知りたいと。この一言が「自

分が知らないことが恥ずかしい」、「怒らせてしまうかもしれない」と、どこか臆病で

いた自分を吹っ切れさせてくれた。

事件に関しては堂々としているシズヱさんだが、幼い頃は委員長やリーダー的な役割は

全くやってこなかった、内気な普通の女の子だったという。そのイメージの違いにも驚

いた。オウム真理教についても週刊誌で読む程度のことしか知らなかったという。あぁ

、この人は私と同じだったのだ。

「挫折することもなく」生きていた、同じ1人の女性。だからこそ、その日常を奪われた

時の気持ちは自分にもわかるはず……これは、自分自身の問題でもあるのだ。「彼女の

ことをもっと知りたい」。今度ははっきりと、そう思った。

32年間家族で住み続けた地、北千住へ

2017年5月18日。シズヱさんに会うために、私は代々木上原から我孫子行きに乗っていた

。事件が起きた車両とは反対方向だが、同じ千代田線の線路を通る。音楽を聴いたり、

友達としゃべったり、居眠りをしたり、スマートフォンをいじったり。よく見る光景が

広がる朝だった。私自身も音楽を聴こうと、イヤホンをスマートフォンに刺し、電源を

つける。表示された時間は、午前10時を少し回ったところだった。

「22年前の3月20日のこの時間には、もう地下鉄サリン事件は起こっていた。そこにはこ

んな平穏はなかったんだ」という考えが、ふいに頭に浮かんだ。6000人以上の人が、人

間の神経を一瞬で破壊するガスを吸い込み苦しんだ。その人たちにとっても、いつも通

りの朝になるはずだったのに。そう考えると、いつもの地下鉄の風景が違って見えてく

る。

地下鉄サリン事件後から取り入れられた、中身の見える透明なゴミ箱。

「駅構内または車内等で不審物を発見された場合は、直ちにお近くの駅係員または乗務

員にお知らせください」というアナウンス。

今まで気にも留めなかった事件の痕跡が、恐怖心を煽る。「自分が気づかないうちに事

件に巻き込まれていたら……」。電車に揺られている間、そんな不安に襲われていた。

地下鉄を降りた先は、亡き夫が生まれ育った故郷であり、結婚後シズヱさんも家族で暮

らしていた北千住。事件の前と事件の後の合わせて32年間、シズヱさんを見守り続けた

。思っていたよりもデパートや駅ビルが大きく、人通りも多い。JRのほかに日比谷線

千代田線、さらにはつくばエクスプレス東武スカイツリーラインも乗り入れており、

駅構内は複雑な造りだ。ここから引っ越してようやく5年になるというが、シズヱさんに

とっては住み慣れた街。道に迷うこともなく、時間ぴったりに笑顔で手を振りながらや

ってきた。

「だって、本当に普通の主婦だったんだもの。48年間、なーんにもなかったのよ」。驚

くほどあっけらかんと話すシズヱさん。その言葉通り、北千住には平凡で幸せだった頃

の思い出があちらこちらに溢れていた。「ここは、タコ公園。よく子どもたちを連れて

来たわ」。きゃっきゃと声をあげながら、今日も近くに住む子どもたちが走り回ってい

る。シズヱさんは懐かしそうに目を細めた。公園の呼び名の由来になっているタコの形

の滑り台は、当時のままだ。

下町ならではの小さな商店街を歩きながら、「あそこの先に有名な病院があって、子ど

もが熱を出したりした時は必ずそこに行ってたわ」、「ここの八百屋さんの奥さんは、

本当におしゃべりで」と話は尽きない。しかし、そこにあるのは楽しい思い出ばかりで

はない。ふいに、少し硬い口調で「ここは、主人の葬式を行ったところ」とつぶやいた

お通夜には、知り合いや職場の人はもちろん、事件を知った人々が商店街の通りにそっ

てずらりと並んでいたという。楽しい思い出話ばかり聞いていたところに急に事件の影

が浮かび上がってきて、どきりとした。北千住は、事件前の楽しい思い出と、事件後の

苦しい思い出、その両方が混ざり合う街。シズヱさんの複雑な想いをそのまま映し出し

ているように見えた。

あの日、何が起きたのか

商店街を抜けると、荒川が見える河川敷に出る。広く、どこまでも続くように思える河

川敷。青空と輝く緑の芝生が眩しい。花摘みをするおばあちゃんと孫。キャッチボール

をする少年。微笑ましい光景が、そこかしこに広がる。「主人と子どもも、ここでキャ

ッチボールしてたな……」。ここにも家族の思い出がたくさん詰まっている。

「主人が仕事仲間と飲むのが好きで。荒川の花火大会の時は、いつもビール片手にベラ

ンダに出て、4時から飲むの」といたずらに笑う。彼女が持って来てくれた家族写真のア

ルバムをめくりながら、いきいきと昨日のことのように語られる家族との思い出。「こ

れが、長男、次男……。家族でよく旅行に行ったんです。いろんなところへ。主人の運

転で」。

アルバムのページをめくるたび、顔がほころぶ。「主人ともね、毎年結婚記念日に旅行

をしていたの。そのたびに子どもたちがいつもサプライズをしてくれて。みんなでお金

集めて『これで行っておいで』って渡してくれたり、旅行先に着いたら子どもたちから

大きな花が届いていたり。本当に、楽しかったですね」。

1995年の春も、2人は結婚記念日に北海道へ行く予定を立てていた。会社にいる一正さん

に、北海道旅行のパンフレットを持ってきてもらおうと、朝、電話をかけていた。鳴り

続けるコール音。一向に電話に出る気配がない。おかしい。そう思いながら、シズヱさ

んも自身の勤務先である銀行へと向かう。

普段通りの仕事を始めてほどなくして、真正面にある大きなテレビにテロップが流れた

。「日比谷線内で事故」という文字。真っ先に日比谷線で働く長男を心配した。長男に

電話をかけてもつながらない。不安が募る。その時、電話が鳴った。シズヱさんの妹か

らだ。「今、テレビを観ていたのだけれど、地下鉄の事故、担架で運ばれていたのって

お兄さん(一正さん)じゃないの?」全身の血の気が引く。

どうして??勝手に流れる止まらない涙と震える体。銀行の上司に上野の営団地下鉄の本

社に連れて行ってもらい、そこで、妹の言っていたテレビ番組を観た。「ああ、間違い

なく、主人だ」。全身から力が抜けたような気がした。自分の目で、その姿を確認した

。「まさか、自分に関わるなんて、まさか、地下鉄であんなことが起きて主人が巻き込

まれるなんて、全く思ってもいなかったの」。

遺品の中には、北海道旅行の行程メモと手帳があった。メモは、鉄道員らしい几帳面な

一正さんの姿が見て取れた。定規を当てて引いたまっすぐな線と読みやすい文字。分刻

みの移動計画や、昼食の場所、予定時刻まで記入されている。その細かさに、思わすシ

ズヱさんの口元も緩む。

「ほら、昔はカーナビなんてないから、私が助手席で地図を見ながら案内役をしていた

の。『そこを右折!』だとか、『そのまま直進!』とか言いながらね。それがすっごく

楽しかったのよ」。

手帳には、叶わなかったお花見の予定も記入されていた。人と集まってお酒を飲むのが

大好きだった一正さん。訪れなかった春。見ることができなかった桜。その時から、シ

ズヱさんは桜を見るのが嫌になった。

事件後15年間北千住での生活

ガタンガタン。千代田線の通る音がする。シズヱさんも私たちも、話す声を張る。高架

橋の下を抜けると、川を挟んで、大きく無機質な建物が見えた。シズヱさんの顔がにわ

かに曇る。

「ここから、拘置所が見えるのよ」

東京拘置所には、地下鉄サリン事件を引き起こしたオウム真理教の教祖・麻原彰晃こと

松本智津夫死刑囚が収監されており、収監後も信者にとって聖地とされている場所でも

ある。今でも時々、信者が塀の周囲をぐるぐる練り歩く光景が目撃されている。

地下鉄サリン事件の被害を受けた千代田線の車両からは、東京拘置所が見える。シズヱ

さんは、しきりに被害者が地下鉄を利用する時にかかる心の負担を心配していた。その

風景が気になった私は、実際に拘置所を撮影するために1人で北千住駅の隣の小菅駅に向

かった。電車に乗り込んでビデオカメラ片手に窓の外を眺めていると、ほどなくして進

行方向右手奥に拘置所が見えてきた。

他の建物にさえぎられることなく視界に入ってくる。灰色の大きな建物が、ぐんぐん近

づく。小菅駅に着いた時には、ホームから真正面にどんと構えていた。周りは住宅街な

ので、どうしても目が行ってしまう。拘置所まで歩いて10分の距離。事件に直接関係が

ない私でさえ、圧迫されていると感じた。

地下鉄サリン事件に関する被告の裁判は、必ず傍聴へ行っていたシズヱさん。出廷を拒

否し、拘置所内で証言したいという被告人を裁くために、特別に拘置所の中へ入ったこ

ともあるという。

「……特別な経験でしたね」と多くは語らない。「不思議よね。昔から遊んでたこの河

川敷から、拘置所が見えるなんて」。

河川敷からだけではない。ご主人が仲間と花火を見ていた家の窓からも見えるのだ。

「別に、毎日住んでるわけだから気にしていなかったけど。カーテンをあけると、あ…

…って思うわよね」

事件後も北千住に住み続けた中で、彼女を苦しめたのは拘置所の姿だけではない。商店

街にあるとある和菓子屋さん。「おいしそう!」と私たちが声をあげると、「あそこは

老舗で人気なのよ。折角だから食べて行けば?」と笑って促してくれた。うれしい気持

ちでお菓子を選び、シズヱさんも何か食べるか聞こうと振り返ると、傍にいたはずのシ

ズヱさんが見えない。あたりを見回すと、ちょっと離れたところの道端で、「私はいら

ない」と首を振っていた。

こうして、事件後から北千住に別れを告げるまでに17年の時が過ぎていた。もちろん、

引っ越したからといって事件が完全に終わったわけではない。その後も相次ぐ容疑者逮

捕に関してあらゆる対応に追われた。取材後、事件に関する比較的新しい新聞記事を探

したのだが、あらゆるところにシズヱさんの姿があって驚いてしまった。地下鉄サリン

事件被害者の会代表として「なかなか引退できないわよね……」と時折つぶやく。

「被害者の会の活動にゴールがあるとしたら何だと思いますか?」という質問にも、苦

笑いだ。「ゴールねぇ……それよりも、私の年齢のほうが気になるわよね。それに、加

害者がいる限り被害者の会は終わらないわよね」。70歳という年齢まで活動しても、「

被害者の会」の終わりは見えていない。

今日も、愛するあなたと一緒に生きていく

北千住の河川敷をゆっくりと歩き、最後にご主人へ花を手向けるため、お墓へと向かっ

た。大通りから一本奥に入った閑静な住宅街。そこに佇む、ひっそりとした墓地。「暑

いから。ちゃーんとお水かけてあげなきゃね」。お墓にかける水を汲んで、奥へと入っ

て行く。シズヱさんが埋めたという梅の木の隣に一正さんは眠っていた。

元々は一正さんと2人で買った小さな梅の盆栽だったが、今ではシズヱさんの背を越すほ

ど大きくなった。穏やかな表情でひしゃくを手にし、墓石全体に水がかかるようにと、

できるだけ上のほうまで手を伸ばす。お線香とお花を供え、シズヱさんとともに、静か

に目をつむる。

「何かおしゃべりしましたか」と聞くと、意外にも「いや……ここに主人が眠ってるっ

て感覚はないんです」とはにかんだ。事件後の裁判で、北千住から地下鉄を使って霞が

関にある裁判所まで何度も何度も通ってきた。その道のりは、一正さんが霞が関へ出勤

するために毎朝通ってきた道でもある。「だからかしらね。主人も一緒に電車に乗って

いるような気がして……家に帰っても主人に『ただいま』っていう気持ちなの」。

シズヱさんにとって、一正さんは決して過去の人ではない。一正さんの話をする時は、

当時に戻ったかのように目がキラキラしていて、茶目っ気もたっぷりだ。「私ね、若い

頃はとーってもわがままだったのよ。怒って主人に何日も口をきかなかったこともある

わ」と言われて、思わず「え、意外!?嘘だぁ」と大声を出してしまった。

シズヱさんはけらけら笑いながら続ける。「でもね、主人に『君は自分のことを世界の

中心だと思ってない?』って言われたの。そこからですねぇ、人の話を聞くようになっ

たのは」。だからこそ、事件後もふさぎ込んでしまうことなく、いろんな人の意見を聞

いて、自分を見つめ直す。そういうことができているのだという。

「主人がいなかったら……今みたいな活動はできてないと思います」。かみしめるよう

に話すシズヱさんの目はほんのり赤く、私は何も言えなかった。「やだ……泣けてきち

ゃった」。お墓になびく風の音だけが響く

「……主人にも聞こえてたんじゃない??こんなことする性格じゃなかったから……驚い

てると思うわ」とまた笑顔が戻ったシズヱさん。「でも、喜んでいらっしゃると思いま

す」と伝えると、照れくさそうな表情でお墓を後にした。

「私にできたんだから、誰だってこの立場になればできるのよ」。そんなことを言われ

ても、取材する前の私だったら絶対に信じられなかった。だけど、今ならわかる。シズ

ヱさんだって当たり前の毎日を送ってきた、ごくごく普通の女性なのだ。突然の事件で

夫を亡くし、被害者になってしまっても「何も知らない、何もわからない」。誰だって

そうだろう。しかし、彼女はそこで終わりにしなかった。

一正さんの言葉を思い出しながら「いろんな人に出会って、そういう人に学んで」生き

てきた。その1つひとつの積み重ねが、代表としての彼女を支え続けてきた。

「今日も頑張るからね。見守っててね」。妻の顔でそう語りかけ、現在も彼女は被害者

の会代表として壇上に立つ。