熊本地震から二年。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 あの真坂? 熊本地震から早二年。

 毎年のように真坂の自然災害が日本のどこかを

継承を促すかのように容赦なく襲う。

 でもいまだにどこかで、「私の家は大丈夫」と

自己暗示をかけていることもまぎれもなくある。

 つい先日、震度5が島根を襲ってもいます。

 東京の大震災からもう100年近くが来ようとしています。

オリンピックの年に関東フラグメントが活動しなければよいのだがと

案じられるところでもあります。

 熊本地震で大切なお子さんをなくされたご家族同士の

かぞくぐるみのおつきあいがはじまっているとのこと!

 同じ境遇だからこそ

言葉はなくても分かり合えるきづなもあることに感動しています。

人は、人類の中でしか救われないことを機会あるごとに教わってもいます。

     アサヒコムより。

「分かり合えなくても」 地震で子を失った親同士の交流 (4/14)

 熊本県庁で14日に開かれた熊本地震の犠牲者追悼式には、幼稚園に通うのを夢見て

いた幼い子や学生生活を送っていた若い命を亡くした親たちの姿もあった。2年の月日

に思いをはせながら、遺族らは手を合わせた。

 入院していた病院が被災し、転院先で亡くなった熊本県合志市の宮崎花梨(かりん)

ちゃん(当時4)の父貴士さん(39)と母さくらさん(39)、阿蘇大橋近くで土砂

崩れに巻き込まれ約4カ月後に見つかった同県阿蘇市の大学生大和晃(ひかる)さん(

当時22)の父卓也さん(59)と母忍さん(50)。子どもの遺影とともに追悼式の

席についた。

 2組の遺族はこの日朝、県庁のロビーで開かれていた熊本地震東日本大震災の写真

展を一緒に見た。晃さんが亡くなった現場の写真の前では、大和さん夫妻が状況を説明

した。

 1年前の追悼式で席が隣になったことをきっかけに交流が始まった。時々、電話で連

絡を取り合う。

 今年3月25日には、宮崎さん夫妻が阿蘇市の大和さんの自宅を訪ねた。

 「同じ年頃の子供を見るだけで、いたたまれなくなる」「平気なつもりでも、何でも

ないときに涙があふれる」「髪の毛1本、ごみひとつ、『子供の形見かも』と考えてし

まい捨てられない」。4人でテーブルを囲むと、それぞれ胸の内に抱えていた思いがあ

ふれた。さくらさんは「子供を亡くした状況は違うので、すべてわかり合えるわけでは

ない。でも、境遇が近い方にお話を伺うと少し楽になる」と話していた。

 追悼式の前、さくらさんは「昨日のことのように思い出す半面、もう2年かという思

いもある」。忍さんは「いろんなことがあった。まだ2年なんだという感じです」とそ

れぞれ話した。(大畑滋生、後藤たづ子)

益城、これからも私の故郷」

 「私の支えは地域の方々、同級生や友人、親戚や姉妹との強い絆でした」

 14日の犠牲者追悼式で、遺族代表としてあいさつした松野良子さん(61)は振り

返った。

 ちょうど2年前の14日、熊本県益城町の自宅で、両親と、遊びに来ていた姉との団

欒(だんらん)を前震が襲った。16日未明の本震で両親がいた納屋が崩れ、母・ミス

子さん(当時84)が亡くなった。

 工務店を営んでいた父・健さんが設計・建築した自宅は全壊。父と2人で同県合志市

のみなし仮設住宅に移った。妻と家を失った健さんは失意の毎日を送り、昨年7月に8

6歳で他界した。

 地震から逃げたくて、できるだけ遠ざかろうと離れたふるさとだが、両親をみとった

あとに芽生えたのは自宅を再建したいという気持ちだった。「家族のよりどころである

実家の再建こそが、地震からの復興の第一歩だと思えた」。先月、工事が始まった。

 秋に新しい家に戻ったら、母が好きだったオダマキを植え、父がそろえていた雑誌を

書棚に並べるつもりだ。家族や親戚と2人の思い出を語り、いろんな人が集まる場にし

たいと思う。「これまでもこれからも熊本、益城町が、私の大切な故郷です」

 「もう2年」とも、「まだ2年」とも思えない。ただ、みんながそれぞれの震災を、

それぞれ乗り越えているように思う。「どうぞ、これからも故郷熊本と私たちをお見守

りください」。祭壇にそう呼びかけた。(杉山歩) 人類は人類の中で同化し