思い出の中の桜。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

桜の思いで

 我が家のうらは講演で、その周囲に桜が植えてある。

その桜も葉桜となりつつある。

またそれも風情を祖へ、やさしく日差しを遮ってくれる

母はとっても頑張り屋の好奇心の強い人で

学ぶことも大好きでした。

仕事に加え、よめに来るまではしたこともなかった農業も

いつもノートに生産の経過と、反省、目標など沢山書き溜めていました。

畑は草も生えてはいないほどきちんと管理もされていました。

これは母が亡くなってから知ることとなりました。

母はなくなる半年前には、親戚の墓参りを市

親戚の者に、手作りのセーターを皆にプレゼントし

その年の暮れ高熱を出し寝込むようになりました。

 私にも複雑な模様入りの手編みのセーターをもらっていますが

身に着けたいとは思いますが、母の病魔の苦しみの中から作られたものは

とても切る気になれず、いまだに宝としてしまってあります。

 近所のお医者さんに診ていただくと『風』との診断でした。

 一か月が経過しても病状は悪化するばかりだったので

大きな病院に行くことを勧めましたが

 母はすでに自分のよからぬ病気を予感していたのか

一向に病院に行こうとはせず

 二月の初め、朝職場に出かけようとすると

 母が消え入るような声で「みいちゃん病院に行くから今日は休んで」と言いました。

でもその日は、自分が企画した行事の日でもあり

休むことはできなかったので

従妹に付き添ってもらって病院に出向き

それからの母は坂から転げ落ちるかのように死のステージに向かってまっしぐらでした

病気の診断は末期の胆管癌でした。

 入院二か月足らずで、兄弟の手厚い看護を受け、プロの付き添いさんにも浴していた

だき

ただただ感謝の言葉だけを残し桜の季節に行き急ぐほどのわずか57歳の永眠でした。

 母の葬儀の日は、桜がほろほろ舞い散っていました。

 私がいまだに悔やむことは、決して無理など言わぬ母が

ぎりぎりまで頑張った末に、病院に行くことを決意したにもかかわらず

どうして付き添ってやらなかったのかといまだに悔やまれてなりません。

葬儀の参列者も多く、若すぎる母を皆が一応に惜しんでいただき

母の生きてきた死生観に最敬礼する思いでした。

それから5年くらいは、桜をめでることなどできませんでした。

 母が生きた年をとっくに過ぎていますけど

母を超えることなどできないみこちゃんです。

せめて、あの世で会うことができたなら

母の大好きなお話しできたならと楽しみにしております。

     アサヒコムより。

桜の季節に思い出す、家族で食べた弁当の記憶 大阪・豊中 (4/13)

 大阪府豊中市にあった国立療養所刀根山病院(現・国立病院機構刀根山病院)の桜を

堺市中区の長田千鶴子さん(71)は懐かしくも辛い記憶として思い出す。

特集:桜ものがたり

 9歳の時、長田さんは母を亡くした。結核を患った母は、長田さんが物心つく前から

刀根山病院に入院し、病院の奥、長い長い廊下の果てにある10人ほどの相部屋で過ご

していた。戦後すぐで家は貧しく、指物大工として働く父も忙しく、年に数回だけ病院

の母を訪ねた。

 阪急蛍池駅を降りて、10分ほど歩いた小高い山の上に病院があり、門に向かって坂

を上ると、道の両側は桜並木だった。母に会える喜びもあり、満開の桜の下を歩くうれ

しさが格別だったのを覚えている。母を訪ねた長田さんは、桜が咲く庭に座って、父母

弟と家族4人で祖母が作った折り詰めの弁当を一緒に食べたのを覚えている。数少ない

母との記憶の中で、思い出す一番のなつかしい景色だ。

 だが、7年間の闘病生活の末、母は亡くなった。しばらくは桜の花を見るのも辛かっ

たという。今も病院に、桜並木や裏庭の桜があるのか分からない。長田さんも、母に会

えなくて寂しい思いをしたが、我が子から離れ独り病院で過ごす寂しさや悲しみはどん

なものだったか。桜が咲く頃になると、思わずにはいられない。

桜にまつわるエピソード

読者のみなさんに、桜にまつわるエピソードを寄せていただいた「桜ものがたり201

8」。これまでに紹介させていただいた以外にも、印象に残る話がたくさんありました

。その中から、みなさんの思いが詰まった「桜ものがたり」を、いくつかご紹介させて

頂きます。

桜と見守る、わが子の成長 神戸市北区

 神戸市北区の田上円さん(49)は泉台2丁目バス停近くの桜がお気に入り。高台へ

上がる階段沿いに数本植えられており、個人的に「桜坂」と呼んで親しんでいる。

 いつ見頃になるか、春になると買い物や仕事の行き帰りにドキドキワクワクしている

。毎年満開の桜と子どもたちの写真を撮るのが恒例となっているからだ。きっかけは息

子の幼稚園入園。その後生まれた娘との何げない1枚など、年を重ねるごとに大切な思

い出が増えている。桜がともに子どもの成長を見守ってくれているように感じる。

 現在は高校3年生と小学6年生となり、2人を同時に写す機会を見つけることが年々

難しくなっている。今年は4月上旬、学校に行く前の子どもをつかまえて無事撮影を終

えた。子どもたちが我が家を巣立つまで撮影を続けていきたいと思っている。

涙で別れを告げた賀茂川の桜 京都市

 34年前の春。京都・賀茂川にかかる葵(あおい)橋を歩いていた澤本美奈子さん(

59)は、目にとびこんできた真っ青な空と満開の桜と、自分に向かって流れる川を見

て、思わず立ち止まった。「次に見られるのはいつだろう。いや、もしかしたら最後か

もしれない」。結婚が決まった喜びと、全く知らない町へ行く不安と寂しさの中で桜を

見ながら、涙が止まらなかった。

 堺市へ移り住んでからは、一度も見ることも思い出すこともなく、走り抜けるように

過ごしてきた。同じ関西圏でも話すスピードについていけず、部屋に閉じこもることも

あった。それでも懸命に生きてきて、知らない町で育てられ、地域で認められる存在に

なれた。

 あの涙の旅立ちがあってこそ、別人のようにたくましい今の自分がいる。還暦を迎え

る今年、不意に当時の自分を思い出した。そんなかつての自分に「大丈夫やで、いける

で」と声をかけてあげたい。

桜並木に重なる亡夫の姿 大阪府岸和田市

 大阪府岸和田市にある市営墓苑の外周道路は、毎年見事な桜のトンネルに包まれる。

近くに住む星川成子さん(66)にとって、桜の季節は亡くなった夫・豊さんの命日と

重なる。

 3年前の3月、突然職場で体調を崩した豊さんはすぐに入院。それから1週間もたた

ずに息を引き取った。多臓器不全だった。慌ただしく葬儀を終えて火葬場に向かう途中

、霊柩(れいきゅう)車の中から満開の桜並木が見えた。毎年必ず豊さんと車で見に来

ていた景色だったが、入院や葬儀の手続きに追われ、桜の開花に気を留める余裕もなか

った。「今年もきれいに咲いたよ」。遺影を抱きながらつぶやくと、涙がこぼれた。

 義母、3人の子ども、5人の孫が集った今年の4回忌。市営墓苑にある豊さんの墓に

向かいながら、満開の桜のトンネルを通り抜けた。家族全員を包み込む桜並木に、6歳

年上で優しかった豊さんの姿が重なる。「みんな元気だよ」と心の中で話しかけた。

奈良九重桜、命名者の思い

 奈良公園の春を彩る八重桜のなかに、形は似ているがひときわ大きな花を咲かせてい

るのが「ナラココノエザクラ(奈良九重桜)」だ。1998年、1年間の観察を短報に

まとめ学会誌に発表。学名を付けたのが愛好家の平野弘二さん(89)だった。

 小学生の頃から、空き地や道ばたで植物を集めては標本にしてきた。中学校の教員時

代には、北海道から九州まで採集旅行にも行った。植物の研究会などに所属し、多種に

わたる桜の調査に没頭していた。そんなとき、知人から、通称「奈良九重桜」と呼ばれ

ていた桜を紹介された。

 大阪府堺市の自宅から奈良公園まで電車で通い、九重桜を観察し続けた。春は花、秋

はくすんだ紅葉、冬には芽…。移りゆく季節に合わせてスケッチを描いた。山桜は普通

がく片は5枚だが、九重桜は10枚もあることがわかった。

 年を取り奈良公園に足を延ばせていないが、「あでやかな花を今年も咲かせてくれて

いるはず」と話す。