明治維新から150年。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 こ寒い春のひと火です。

 鶯がのどかなささやきを届けてくれてます。

   明治維新から150ねんをむかえるとか・・・。

 「散切り頭を叩いてみれば、文明開化の音がする」

実によく言い当てていると感心します。

 幕末から現代に至るまで

人間力のたくましさと、その英知には驚くばかりです。

 時代の子として生き抜く一生

息切れがするほどの激動期を駆け抜けているのだとぽかんとしたりしてます

みこばあちゃんであります。「にこ」

明治維新は、日本の歴史を語る上でも、外せない大きな出来事の一つであり、またこの時代は現代でも人気があり、いろんなドラマや映画、小説などにも使われていますね。

例えば、NHK大河ドラマの「龍馬伝」や「花燃ゆ」、映画「半次郎」「竜馬を斬った男」、そして小説では「江戸開城」や「異人館」など、とても多くの明治維新に関する作品が作られています。

(NHK大河ドラマ「花燃ゆ」が気になる方はこちらまで♪「花燃ゆのあらすじ♪」)

この記事をご覧いただいて、明治維新について少しでも興味を持っていただければ・・と思います(*゚▽゚*)

では、早速、明治維新の世界へどうぞ・・・(^O^)

明治維新について5分で分かる!坂本龍馬等の人物等の概要について

明治維新の流れと活躍した人物についてご紹介します(^O^)

明治政府が行った重要な改革とは、西欧式文化の導入や身分制度の廃止、廃藩置県を実施したことです。

簡単に言うと、近代的封建国家から西欧型帝国主義国家に改造したということになります。

改造事業だけでも、飛躍的な向上が行われた事はいうまでもありません。

さて、ではこの日本の大改革とも言えるべき明治維新はいったいどのようにしておきたのでしょうか?

ここで、忘れられない人物がいます。

そうです。知る人ぞ知る坂本龍馬です!

Sakamoto_Ryoma

坂本龍馬

坂本龍馬薩長同盟を締結させ、倒幕のために大政奉還成立に力を入れました。

薩摩藩長州藩は元々、対立していたのですが、倒幕のために力を合わせる機運が出てきたため、両藩は「薩長同盟」を結びました。

この締結に坂本龍馬は仲介役として大きな役割を果たしたのです(*゚▽゚*)

そして、薩摩藩長州藩は、武力で討幕をしようと考えていました。

しかし、土佐藩は武力を使うことは避けたいと考えていて、龍馬といろいろと策を練っていたのです。

そして、龍馬は大政奉還の案を提案して、土佐藩を介して、将軍である徳川慶喜に建白をします。

i徳川慶喜

徳川慶喜

結果的にこの案は受け入れられ、慶喜は政権を天皇に返して大政奉還がなされたという流れになったのです。

これにより250年近く続いた徳川幕府の幕が下ろされることになりました。

このように、龍馬の行動は、その後の明治維新に多大な影響を与えたのです。

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坂本龍馬について気になるかたは「5分で分かる坂本龍馬」まで)

さて、では、次にこの後の動きを見てみましょう。

江戸幕府による大政奉還の後、王政復古によって天皇による新政府が成立しました。

まず、明治維新として行われたのが、軍隊の導入です。

徴兵令を導入し、近代的な軍隊を作ることを始めました。

次に行ったのが身分制度の廃止で、いわゆる士農工商を廃止し、四民平等を訴えました。

しかし実際のところは、士族、それ以外は平民として、旧公家・大名などは華族という特権階級とされてしまったのです・・・

華族と士族には特権が与えられていましたが、廃刀令が出されると士族の特権はなくなってしまいます。

そして、この廃刀令に我慢ができなかった士族たちの反乱が多く勃発してしまったのです・・《゚Д゚》

1877年に薩長同盟で活躍した西郷隆盛が率いる最大の反乱の西南戦争が鎮圧されたことで、長きに渡った反乱も幕を閉じることになります。

西郷はこの際に自害したとされています。

西郷隆盛

西郷隆盛

西郷隆盛が気になる方は→「西郷隆盛が5分で分かる!」)

この明治維新をすすめるのに伴い、税収の確保が問題となりました。

そこで、土地を基本とする新たな税制度が構築されたのです。

1871年には土地の売買が可能となり、1874年の地租改正条例が制定されることで、土地は、私有となり土地所有者に地券というものが発行されるようになりました。

そして、地租という形で課税されることになったのです。

これにより、土地に対する私有財産権が完全に確立し、資本主義の基礎条件が成立することになったのです。

産業面では、富国強兵・殖産工業のスローガンのもと、政府主導の産業の育成が行われました。

富岡製糸場などの官営模範工場が作られ、西洋式の工業技術が導入されました。

教育に関しては、藩ごとの独自教育制度があったものの地域差が大きいという問題がありました。

全国一律の教育制度が必要との認識から、義務教育が開始されます。

小学校令や帝国大学令が発表された結果、全戸に尋常小学校や高等小学校、大学が新設されて、徐々に一般階級の民衆にも高度な教育が受けられるようになったのです。

尋常小学校df

尋常小学校旧舎」

また、女子教育の必要性にも声が上がるようになりました。

これにより、伊藤博文らによって女子教育奨励会が設置されることになります。

そして1874年に女子師範学校が設立されたのです(*゚▽゚*)

男子への教育と比較すると流れは遅かったものの、徐々に女子への教育の必要性も広まっていったのです・・・

     産経より。

【正論】明治の精神的苛烈さは廃れたか 文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司 (2018年4月6日 11:00)

≪維新150年に欠落した視点≫

 今年は、明治維新150年の記念すべき年である。明治の精神についてさまざまな視点からの振り返りが必要であろう。なぜなら、今日の日本人に欠落しているものの多くがそこにあるからである。

 昭和43年の明治維新100年のときには、産経新聞に明治の青春と日露戦争を描いた司馬遼太郎の『坂の上の雲』が連載され、朝日新聞には幕末維新期を描いた大佛次郎の『天皇の世紀』が連載されていた。雑誌などでも明治維新の精神史的意義をとりあげた特集があり、明治の精神への回顧も深いものがあったように思われる。

 しかし明治150年の今年は、明治に対する振り返りがさまざまに行われているのは事実であるが、それが精神史的な深みを持ったものであるかは疑問である。今日の価値観や常識を突き破ってしまう精神の姿に震撼(しんかん)されることを避け、現在的な視点から分析したり解釈したりしているにすぎないようである。明治維新の激動期に噴出した精神的エネルギーを、今日的な通念が許容する範囲で整理しているだけのような気がする。

 明治維新の精神的苛烈さに、こちらが打ち砕かれてしまうようなとらえ方をしなければ、明治維新から何も学べないのではないか。

 そのようなことになっている原因は、根本的にいえば現代の日本人が明治維新というものをもはや理解できなくなっているのではないか、ということである。例えば、明治維新の精神の典型である吉田松陰について、今日散見される奇妙な解釈を考えるとき、そのような思いを禁じ得ない。

≪今の日本人に松陰が解るか≫

 『天皇の世紀』の中で大佛次郎吉田松陰を見事に描いているが、「大獄」の巻の中で「外国人、つまり昔の夷狄の一人のG・B・サンソム」と書き、そのサンソムの松陰観を「野火」の巻で次のように引用している。サンソムは、英国の外交官で、日本研究家としても知られ、著作に『西欧世界と日本』などがある。

 「日本歴史を書いたG・B・サンソム卿が松陰のことを叙して『吉田寅次郎、彼は当惑させられる性格の持主であった。彼の伝記を粗略に読むと、彼が愚か者で、狂信的で無能であったとの印象を受ける。彼は高邁(こうまい)な理想、雄大な構想、野心的計画で充満していたが、大小を問わず着手したすべてのことに失敗した。それは常識の欠如に基づくといえよう。外国の研究者がなぜ彼があれほどまで同時代人の心に強い影響を及ぼし、また後世の人から法外に賞讃されたかを理解するのは、この点で容易なことではない』としている」

 大佛次郎は、その前で「サンソムが、なぜ松陰が同時代人の心に強い影響力を及ぼしたのか外国の研究者にはほとんど理解しにくいと言ったのは当然なのである」とした上で、「日本人ならばこれが解(わか)るとも最早言いえないのである」と恐るべきことを指摘した。これは、昭和45年頃の執筆である。

 日本人の歴史学者そのものが「サンソム」化していきつつある現在、また「外国人」のような日本人が増えてきつつある今日、ますます松陰の精神について「これが解るとも最早言いえないのである」という事態になっているのではあるまいか。今日世上に見られる松陰についての見当外れの見方は、何か政治的な底意も感じられるが、根本的には、このような無理解が原因のように思われる。

≪歴史と思想の「坩堝」に飛び込め≫

 大佛次郎の『天皇の世紀』を高く評価した小林秀雄が、ちょうど大佛次郎が上記のように書いた頃、江藤淳との対談で吉田松陰について語っていた。昭和46年に行われた対談には、昭和45年11月25日の三島由紀夫の自決をめぐって激しいやりとりがある。小林は「三島君の悲劇も日本にしかおきえないものでしょうが、外国人にはなかなかわかりにくい事件でしょう」ととらえている。そして、江藤が三島について「一種の病気でしょう」と言ったことに対し「それなら、吉田松陰は病気か」と激する。「日本的事件という意味では同じだ」と言うのである。

 大佛次郎の記述や三島由紀夫の自決から、あと2年でもう半世紀になる。ちょうど東京オリンピックの開催される年である。吉田松陰の精神史的意義について「日本人ならばこれが解るとは最早言いえないのである」という状況にますますなっていくかもしれない。しかし、吉田松陰が解るということが、日本文明を立たせる柱の一つなのである。

 まずわれわれ現在の日本人は、明治維新の「坩堝(るつぼ)」のような精神の激動を理解することができる精神の勁(つよ)さを失ってしまったのではないかという自省から出発すべきである。外側から眺めているのでは何もつかめないであろう。

 「畏(おそ)れ戦(おのの)きて」明治の精神に対すべきである。そして、その歴史と思想の「坩堝」に飛び込み、忍耐強く潜水して、その底にあるものを掴(つか)み取って浮上しなければならない。それが、日本文明を支える土台を構成するからである。(文芸批評家、都留文科大学教授・新保祐司 しんぽゆうじ)