言葉を大切に生き続けた永六輔さん。

ご機嫌いかがでしょうか。 視界ゼロのみこばあちゃんです。

ラジオ、テレビの人であり続けた(永六輔(・

 その人生は、病気との闘い、家庭に顧みることの少なかった日々

それなのに家族にいつも愛され、心に残る歌詞を残し続けられた

国民的英雄でもあり続けた人の人格は

課程にあっても変わることのないお人柄であったという

常に言葉の向こうに人を描き続けた人でもありました。

一語一語がハートにすとんと落ちる永六輔さんの言葉の深さ

いろいろな病魔と闘う中

いつも上を向いて歩いてこられた永六輔さん。

いつも太陽のような神々しい光を変わることなく送り続けたえいろくすけさん

本当に素晴らしいお方でした。

どれほど気持ちの支えとなったことでしょう。

いや、永六輔さんの数々の言葉は心の中に永遠に残り続けます。

印象的な言葉としては

悲しみも、苦しみも堪えて耐えてたえきれることでしょう!

でも耐えられないのは拒否、むなしさだと言っておられます。

その通りだと思います。

永さんが残した最期のメッセージとも言える言葉。

どんなものだったのでしょうか。

未公開 永六輔 “最期の言葉”

都内にある、永さんが30年以上暮らしていた自宅です。

亡くなってから1週間あまり。

初めてテレビカメラが入りました。

次女 麻理さん

「エイを集めていまして、ものすごいたくさんエイがあるんです。

ほとんど大橋巨泉さんが、あちらこちら海外から持ち帰ってくださったお土産なんですけど。」

多くの人たちとの思いが詰まった自宅で、最後を過ごすことを望んでいた永さん。

次女 麻理さん

「最後はここにベッドがあったんですね。

片付けちゃいましたけど。」

亡くなる直前まで、友人や家族と話をしながら過ごしていました。

次女 麻理さん

「(亡くなる)前の晩も、とってもはっきりしていたので、まさか翌日にいなくなることになろ

うとは全く予想もできず。

最後に娘2人と3人で遊んで、気が済んじゃったのかなと思ったりしますけど。」

今回の取材で、永さんが残した未公開の詞があることが分かりました。

高校生の頃から永さんを慕ってきた、歌手の加藤登紀子さん。

いつか一緒に曲を作りたいと話していたところ、3年前、闘病中だった永さんが自ら届けてくれ

ました。

“淋しさには耐えられる

悲しみにも耐えてみよう

苦しさにも耐えてみて

耐えて耐えて

耐えられないのは虚しさ

虚しさ 空しさ

虚しさが 耐えられるのは

ともだち あなた 戦う心”

加藤さんは、最後の1行につづられた永さんの言葉を意外に感じたといいます。

歌手 加藤登紀子さん

「永さんに『戦う心』って珍しいでしょ。

でも、返すようだけど、永さんこそ、本当に戦った人ですね。

楽しくないすべてのことに対してですよ。

人々を笑わせないようにする、人々を惨めにさせる、命を台なしにする。

すべてのことに対して、戦った人ですよね。」

虚しさに耐え、戦う。

永さんは言葉を武器に、それを貫きました。

上を向いて歩こう

上を向いて歩こう

涙がこぼれないように

思い出す 春の日

一人ぽっちの夜”

昭和36年に永さんが作詞した「上を向いて歩こう」。

坂本九さんの歌う、明るいメロディーが大ヒットしました。

上を向いて歩こう

上を向いて歩こう

にじんだ星をかぞえて

思い出す夏の日

一人ぽっちの夜”

この歌は、戦後の復興を支え、貧しさから抜け出そうと戦う人たちへの、永さんの応援歌だった

と語る人がいます。

60年来の友人、黒柳徹子さん。

歌に強いメッセージが込められていることを永さんから聞き、驚いたといいます。

黒柳徹子さん

「『上を向いて歩こう』のときは、永さんがあれは本当にみんなが心(勇気)づけられるような

歌だったと、私たちは思っていますけれど。

歯を食いしばってずっと戦後を生きてきた。

その歯を食いしばっている、みんなのその気持ちを、あの歌の中に込めたって言ってましたから

ね。

やっぱり随分いろんなことを考えて、ああいう楽しい歌なんだけど、そういうふうなことを考え

ているんだなって思いました。」

その後、永さんは自らが育てたテレビを離れ、ラジオに戦いの場を移していきました。

永さんと40年以上ラジオで共演 遠藤恭子さん

「永さんは、いつもこちらのお席ですね。

ここのお席を、これをどけて、ここに車いすを入れて放送してました。」

40年以上にわたって、ラジオ番組で共演してきた遠藤泰子さん。

リスナー1人1人に、言葉でつながろうとする永さんの姿に圧倒されたといいます。

永さんと40年以上ラジオで共演 遠藤恭子さん

「ご紹介できないお葉書が山のようにあるわけじゃないですか。

それを申し訳ないといって、永さんはあるとき、返事を書こうと決心をして、全部に、何万枚で

すよね。

全部返事を書いて、結局、手を悪くなさった。」

永さんが亡くなった今も全国のリスナーから、はがきが寄せられています。

リスナーからのはがき

“永さんのはがきは私の宝物です。”

リスナーからのはがき

“現実を受け入れられるようになるまで、もう少しだけ今まで通りに、はがきを送らせてくださ

い。”

デビュー当時から親交のあるピーコさんです。

永さんがラジオを選んだのは、テレビよりも自分の言葉が届いている実感があったからだと考え

ています。

ファッション評論家 ピーコさん

「ラジオは個人と個人が行って来いみたいなところがあるから、仲良く、いつも聴いてると、し

ゃべってる人を自分の身近な人だと思えるようになれるから。

テレビで映ってると、上目線でしゃべってるように自分で見えちゃうんじゃないか。

それが嫌だったんだと思います。」

ラジオを自らの戦いの場と定めた永さん。

こだわったのは、電波の届く先。

つまり、現場をじかに訪ねることでした。

そこで出会った1人1人と向き合い、その悩みや怒りを言葉にして伝えていったのです。

永六輔さん

「くり煎餅知ってる?」

「くり煎餅?

くりのお煎餅?」

永六輔さん

「駄菓子に近いんだけど、くり煎餅っていう煎餅があるの。

くりの形してんの。

ところが、このくり煎餅にはくりが入ってないの。

入ってないのにくり煎餅って言うのはおかしいって公取公正取引委員会)から入ったんですよ。

くり煎餅屋さんは困って『永さん、何とかしてください』。」

「別にくりの形してたらいいかなって。」

永六輔さん

「お役人と闘うってこういうことかと思った。

僕も交渉に行きました。

うぐいす餅って、うぐいす入ってませんよ。

キリンビールって、キリン入ってませんよ。

ブルドックソースって、ブルドック入ってませんよって。

お役人が法律を決めるときに、文化っていうことを考えないってこと。

零細企業ですよ、くり煎餅屋さんなんて。」

永さんと40年以上ラジオで共演 遠藤恭子さん

「変だなと思ったら、それは『変だ』って声をあげなさい。

変なのに黙っているのは、それこそおかしいんじゃないかい?

(永さんは)いつも思ってた。

なんかわからなくても、ちょっとわかったふりして過ぎていってしまうようなことがあるじゃな

いですか。

永さんは、それ絶対なさらなかったんですよね。」

永さんと多くの本を一緒に書いた、矢崎泰久さん。

一見ぶっきらぼうに見える永さんの言動の裏には、声なき人たちを代弁したいという思いがあっ

たはずだといいます。

ジャーナリスト 矢崎泰久さん

「永さんのあだ名を“ためにちゃん”てつけるんですよ。

誰かのためにというと、すごい頑張るんですよ、彼が。

『また、ためにちゃんやってる』なんて言ってね。

自分よりは誰かのためになること、誰かが喜ぶことに何かすることが自分がうれしいんですよ。」

その姿勢は、晩年まで変わりませんでした。

5年前の夏、東日本大震災の被災地を訪ねた永さん。

パーキンソン病を患い、思うように体を動かせない中、足しげく通い、自分の目で確かめました。

永六輔さん

「犠牲者は出なかった?」

被災地に、諦めやむなしさが広がっているのを感じ、永さんならではの言葉で現地の人たちを勇

気づけました。

永六輔さん

仮設住宅にいるから、施設にいるから悲しくって、気が重くって、笑ってる場合じゃないと思

う方もいらっしゃるけれど、本当は笑いたいんだと思う、本当は。

だったら笑う話をたくさん用意して出かけようと。」

永さんが訪れた町の1つ、宮城県山元町です。

地元の寺の住職・早坂文明さんは、ほかの誰にもかけられたことのない言葉を贈られました。

永六輔さん

“大津波 全部持ってけ 馬鹿野郎”

最初は、この言葉に戸惑った早坂さんでしたが、やがてそこに込められた永さんの深いメッセー

ジに気付きました。

徳本寺 住職 早坂文明さん

「大津波の馬鹿野郎っていう、そこを言いたいんだと思うんですよ。

いっそのこと何もかも持っていってしまえと。

ただ何もかも持って行かれても、我々は必ず立ち直るぞという、その裏の思いがあるんじゃない

かと思うんですね。」

誰よりも、自らが発した言葉の届く先を見つめ続けてきた人。

それが永さんだったと、黒柳さんはいいます。

黒柳徹子さん

「私、亡くなった後、考えてみたら、永さんって人は、ちょっと伝道師みたいなところがあった

なと思ったんですね。

60年間そうやって、北から南へ、南から北へそうやって旅して、そこでみつけたおもしろいも

の、興味のあるもの、みんなに教えたいものはとにかく帰って来て、ラジオでそれを伝える。」

書斎に残されていた、永さんのノートです。

次女 麻理さん

「これで一年分なんですけど、こんなことを原稿に書こうと思うようなメモをひたすら取ってい

たんですよ。」

年間300日以上旅に出て感じたことや、思いついたことを走り書きしていた永さん。

数々のアイデアとともに旅立ちました。

     アサヒコムより。

永六輔さんを看取る 永千絵さんインタビュー 「最後まで楽しむ」に救われた

日本のラジオ、テレビ界を牽引(けんいん)し、作詞家としては世界的ヒット曲「上を向いて歩

こう」を手がけるなど多彩な才能を発揮した永六輔さん。さまざまな病気と闘い続け、平成2

8年7月に83歳で亡くなった六輔さんだが、長女の千絵さん(59)らの熱心な介護もあっ

てか、亡くなる前日、ある“奇跡”が訪れたという。(広瀬一雄)

介護は女性ばかり

昨年夏、六輔さんの素顔を語った「父『永六輔』を看取る」(宝島社)を出版した千絵さん。

六輔さんについては「不思議な人でした」と話す。「テレビやラジオなど、外で活躍していると

きも、家でも変わらない人でした。以前はほとんど家にいませんでしたから、父が家にいるよ

うになってから、初めて『まるで本物の親子みたい!』って思いました」という。

パーキンソン病など、それまでもいろいろな病気と闘ってきた六輔さんだが、平成23年秋には

転倒して大腿(だいたい)骨頸(けい)部を骨折。28年になると3カ月間入院し、その後、

在宅療養になった。

「24時間、私か、夫か、アナウンサーをしている妹の麻理の3人のうち、だれかがいっしょに

いる。夜間は必ず私か夫が泊まりこんでいました」(千絵さん)

訪問看護師やヘルパー、夜間見守りサービスも利用しながらの介護。そのときに「介護の担い手

は女性の方ばかりで、もっと男性がいてもいいのかな」と思ったという。

亡くなる前の晩「夢のような時間」

長年ラジオ番組を続けてきた六輔さんだが、それも28年に終了。

発声のリハビリに力を注いでいた麻理さんと、「これからはゆっくりと休んでもらいたい、とも

思っていました」という千絵さんだが、姉妹の間では「ずっと前から、スタジオのマイクの前

で亡くなったら、父も本望だろうなって話していました」という。

そして迎えた28年7月6日の夜。いつもなら千絵さんと入れ替わりに帰る麻理さんも残り、親

子3人で水入らずの時を過ごした。

調子が良かったという六輔さんはアイスキャンディーを食べ、続いて言語聴覚士さんから許可を

もらって、麻理さんが買ってきたスルメをしゃぶった。

「『おいしい』という言葉がはっきり出てきました。飲み込まないように言うと、父が『あぶな

いね』となめらかに発音し、本人が驚いて笑っていました」(千絵さん)

千絵さんは、そのときの様子を、今から思い返しても「夢のようでした」と振り返る。「スタジ

オには行けなくても、みなさんに録音で声を届けられるかも、3人で『いけるよね』って思い

ました」

しかし翌朝、家に戻った千絵さんに、交代したホームヘルパーから連絡が入った。「父の家に戻

りましたが、ちょうど息を引き取ったところでした。前の晩に父を疲れさせちゃったんだな、

と思いました。でも、前の晩の楽しい盛り上がり、本当に楽しい、夢のような時間でした」

声を上げて役割分担

「父自身が、最後の最後まで、自分の置かれた立場を少しでも楽しもうという姿勢には、本当に

救われました」と千絵さんは語る。

家族の介護に悩んでいる人は少なくない。千絵さんは「役割分担」と「声を上げること」の大切

さを強調した。

「私には引っ込み思案なところがあって、周りに助けてって言えなかった。でも夫の良明や麻理

は、困っているときに、周りにどうすればいいかを聞くことができた。人の性格はそれぞれで

すから役割分担ができたらいい。『助けて!』と声を上げることは大事。遠慮しないで助けて

もらいましょう」

【プロフィル】永千絵

えい・ちえ 昭和34年、東京都生まれ。永六輔(本名・永孝雄)さんの長女。成城大学文芸学

部卒。映画エッセイストとして活躍し、著書に、六輔さんや祖父の永忠順(えい・ちゅうじゅ

ん)さんとの共著「永家物語」(PHP研究所)や、「いつもの場所で」「親子で映画日和」

(いずれも近代映画社)。妹の麻理さんはフリーアナウンサー