大震災から7年。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 あの忌まわしい東北大震災から7年を迎えた。

 いまだに心の平安など音連れ用はずもない。

だが多くの心が世界中から寄せられたことも事実。

 なんだかんだ言っても現地への国民の思いは少しづつ

離れつつあることもまた、確かな実感として寂しい

思いを抱かれておられるお方も少なくないはず。

 あの焼け野原であった広島のふっこうぶりはどうでしょう?

本当に目を見張るほどの近代復興ぶりです。

心あるお方の根強い復興支援がどれほどの

お方の心を揺り動かされることでしょう。

九州の大学生が、年を重ねても

飽きたに住みたいと支援を、続けておられる若いエネルギーもあります。

 また、「保証金で楽々生活をしているんだろう」などと

心無い考えしかできていないお人も

また、たくさんおられることも事実ではあります。

良いとこどりの人生のあゆみであることを願ってやみません。

被災者が社会人となり、立派に貢献されているお姿に触れ

神々しいほどのエネルギーを頂戴することができました。

東北のお方の物静かで穏やかなおもてなしぶり

人に接するお心をいつも関心をもって感じさせていただいております。

     産経新聞より。

東日本大震災7年】そして、志す(5))「地域住民の安全守る」 中学2年の志貫き警察官

に 宮城県警岩沼署増田交番勤務の川越樹巡査(21)

宮城県東松島市に暮らす中学2年生はあの日、卒業式の準備を終え、教室で帰宅の用意をしてい

た。午後2時46分。猛烈な揺れが襲った。「海が近いから水(津波)が来る」。とっさに頭

に浮かんだが、まさかあんなにも大きな津波が押し寄せるとは想像もしていなかった。

県警岩沼署増田交番に勤務する川越樹巡査(21)は当時を振り返る。

2階の教室に避難した。1時間半ほどで水は1階の天井の高さまで達した。みるみるかさを増す

水。「死」が頭をよぎった。

一命は取り留めたが、「家族はどうしているだろうか」と不安にさいなまれた。「大丈夫」と自

分に言い聞かせ、カーテンを布団代わりに暖を取り、家族の迎えを待った。

姉が学校に迎えに来たのは震災発生から3日後だった。母も無事。父は県外に単身赴任中で難を

逃れた。

しかし、祖母が津波に流され、犠牲となった。震災から約2週間後、遺体安置所で見つかったと

聞かされた。小学生のとき、運動会を見に来てくれた。声援を送るでもなく、じっと静かに観

客席で見守っていた。

「来てくれたんだ」。声をかけると、にっこり優しい笑顔になった。一番の思い出だ。幼稚園か

らの幼なじみも、一緒に生徒会活動をしていた友人も犠牲になったと知った。

震災直後、穏やかな地元の風景は一変していた。窓ガラスが割られたコンビニエンスストア、金

を盗むためか、壊された自動販売機。「何かあると危ないから」と、金属バットを置いて身を

守ろうとする人もいた。母には「危ないから日没までに帰るように」と言い聞かされた。

治安が崩れた町の様子を見て、いつしか「地域住民の安心を近くで守りたい」という思いが芽生

えた。警察官になろうと決めた。

昨年10月、大型の台風21号が県内を襲った。当直だったが、冠水や交通事故を伝える電話が

鳴り止まない。パトカーで名取市閖上地区に向かった。震災の津波で甚大な被害を受けた地域

。水があふれていた。

「あのときと同じだ」。津波を思い出す。

「水の恐ろしさは津波の経験から知っていた。水に向かって行ってはいけないという原則が頭に

入っていた」。効果的に交通規制をかけることができた。

「本当に困っている人に、すぐ判断でき、すぐ活動できる警察官になりたい」。川越さんは話す。

■〈かわごえ・たつき〉 宮城県東松島市出身。父は自衛官石巻市内の高校を卒業後、宮城県

警に入庁。高校時代はラグビー部に所属。趣味はドライブ。座右の銘は「迅速・的確」で、理

想とする警察官像は「速く的確に行動することができる警察官」。

この連載は林修太郎、千葉元、塔野岡剛、内田優作が担当しました。