防衛費の審議丁寧に

 

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

借金だらけの予算国会が開かれます。

防衛予算の削減はお願いしたいものです。

 防衛機密費のできる限りの開示もお願いしたいものです。

また航空母艦の購入もいるのでしょうか?

軍備はこれでよいことにはなりにくいのが実態です。

しまいには攻撃機、核保有と日本は軍事国家にとその姿を変えようとしているのが

安倍内閣です。

暴走は更なる暴走を加速することになります。

 日本は唯一被爆国です。

多くの被爆者の犠牲の上に今日を教授できていることを

片時も忘れてはなりません。

 総理がトランプ大統領とゴルフを興じることのできた

大地の下には多くの無念の魂が存在していることに思いをはせていただきたい。

これ以上の軍備は日本だからこそ持たないでほしいものです。

 平和像のサダコさんは言う。

「これ以上の命の破壊は、もうやめてほしい」と

北朝鮮国難と言いつつどれだけの迎撃機をそろえればよいのでしょう。

空母保有検討 専守防衛が変質する

防衛省自衛隊が「航空母艦保有の検討に入った。あくまで離島防衛を目的としているが、自

衛のための必要最小限度の範囲を超える恐れは否定できない。「専守防衛」政策の変質は許さ

れない。

戦力不保持を掲げる憲法九条の下でも、自衛目的さえ掲げれば、どんな装備でも保有できるわけ

ではあるまい。防衛省海上自衛隊のヘリコプター搭載型護衛艦「いずも」を改修し、最新鋭

戦闘機F35Bが発着できるようにする検討に入ったという。いわゆる航空母艦(空母)化で

ある。

歴代内閣は大陸間弾道ミサイルICBM)や長距離戦略爆撃機などと同様、「攻撃型空母」の

保有は許されないとの政府見解を堅持してきた。「性能上専ら相手国の国土の壊滅的破壊のた

めにのみ用いられる攻撃的兵器を有することは、自衛のための必要最小限度の範囲を超える」

ためである。

防衛省は改修後のいずもを「防御型空母」と位置付け、沖縄県尖閣諸島などを念頭に離島防衛

や上陸作戦に活用するという。しかし、これは詭弁(きべん)ではないのか。

米軍の例を引くまでもなく、空母は打撃力を有する攻撃的兵器である。攻撃的兵器と防御的兵器

の区別が困難であることは、政府自身が認めている。いくら防御型と言い募っても、攻撃型の

性能を有することは否定できない。

専守防衛を掲げながらも、北朝鮮や中国の脅威を理由に、その中身を大きく変質させてきたのが

安倍内閣の実態だ。

さかのぼれば歴代内閣が堅持してきた憲法解釈を一内閣の判断で変更した集団的自衛権の行使容

認であり、最近では二〇一八年度予算案に関連経費を計上した、敵基地攻撃能力につながる長

距離巡航ミサイルの導入計画である。

そして空母の保有検討だ。専守防衛をどこまで骨抜きにすれば済むのか。それとも、そうした実

態を先行させて、憲法九条改正につなげる思惑でもあるのだろうか。

日本周辺の情勢変化に応じて防衛力を適切に整備することは必要だとしても、やみくもに防衛費

を増やしたり、防衛装備を導入したりすればいいというわけではあるまい。

憲法九条を持つ平和国家として専守防衛に徹し、節度ある防衛力整備に努め、他国に脅威を与え

る軍事大国にならないことが、戦後日本の国際社会への重要な貢献である。通常国会では、そ

の原点を忘れることなく、安全保障をめぐる徹底的な論戦を期待したい。

   佐々木定子さんの引用文です。

1945(昭和20)年8月6日

1945(昭和20)年8月6日、原爆(げんばく)が投下されました。家族と共に爆心地(ばくしんち)

から約1.7kmの楠木町(くすのきちょう)の自宅(じたく)で被爆(ひばく)した禎子(さだこ)さんは

、爆風(ばくふう)で屋外まで飛ばされましたが、やけども傷(きず)も負いませんでした。すぐ

に辺りから火の手が出始めたので、禎子(さだこ)さんはお母さんに背負(せお)われ避難(ひなん

)しました。その際、三篠橋付近(みささばしふきん)で「黒い雨」に打たれました。

げんばくとうか2カ月後の様子 4

原子爆弾投下(げんしばくだんとうか)2カ月後の様子

1945(昭和20)年10月上旬(じょうじゅん)

禎子(さだこ)さんの自宅(じたく)は全焼したため、家族は県北部の三次の親類の家に身を寄せ

ることになりました。爆心地(ばくしんち)から半径2km以内の地域(ちいき)は、熱線と火災に

よりすべて燃え尽(つ)くされたのです。原爆(げんばく)の爆風(ばくふう)と熱線、そして放射

線(ほうしゃせん)は人々に被害(ひがい)を与(あた)えました。当時市内には約35万人がいまし

たが、一発の原爆(げんばく)で、その年の12月末までに14万(±1万)人が亡(な)くなりました。

ささきりはつてん リレーの選手

5

復興への新たな生活の始まり

撮影時期不詳(さつえいじきふしょう)/佐々木理髪店(ささきりはつてん)

戦後の混乱(こんらん)や物不足に苦しみながらも、再建するための努力が続けられました。佐

々木家(ささきけ)も1947(昭和22)年に新たに市内に理髪店(りはつてん)を開き、生活に落ち

着きを取り戻(もど)していきました。禎子(さだこ)さんは元気に育ち、幟町(のぼりちょう)小

学校に入学しました。

6

足の速さは学校一番

1954(昭和29)年10月/幟町(のぼりちょう)小学校

6年生になった禎子(さだこ)さん。身長135cm、体重27kg。少しやせ気味ですが、いたって健康

。かけっこはだれにも負けません。50mを7.5秒で走りました。秋の運動会ではリレーの選手に

選ばれ活躍(かつやく)しました。将来(しょうらい)の夢は中学校の体育の先生。9月ごろから少

し顔色が悪いことに気付きましたが、特に気に留めることはありませんでした。前列中央が禎子

(さだこ)さん。

1954年秋のさだこさん 広島赤十字病院

7

病のきざし

1954(昭和29)年秋

1954(昭和29)年11月下旬(げじゅん)、禎子(さだこ)さんは軽い風邪(かぜ)をひき首や耳の後

ろにいくつかしこりができました。徐々(じょじょ)にしこりは大きくなり、おたふく風邪(かぜ

)のように顔がはれました。正月明けに近所の病院に行きましたが、いっこうにはれはひきませ

んでした。1月末には左足に紫色(むらさきいろ)の斑点(はんてん)がみられました。しかし、だ

れにも禎子(さだこ)さんの体内で進行していた病気は分からなかったのです。

8

死の宣告(せんこく)

1939(昭和14)年/広島赤十字病院

当初は風邪(かぜ)と思っていましたが、病院をまわって詳(くわ)しく検査した結果 、白血病

と診断(しんだん)されました。2月18日、お父さんは医者から「長くて一年の命。すぐ入院が必

要」と宣告(せんこく)されました。禎子(さだこ)さんがそのような重病だとは、信じたくあり

ませんでした。お父さんから「はれを治すため少しの間入院しなければならない」と説明を受

けた禎子(さだこ)さんは、2月21日に広島赤十字病院に入院しました。

さだこさんの小学校のそつぎょうしょうしょ

9 禎子(さだこ)さんの小学校の卒業証書

こけし

10 禎子(さだこ)さんが自分で買い、病院のベッドの枕(まくら)もとに飾(かざ)っていたこけし

同級生のおみまい

11

同級生のお見舞(みま)い

1955(昭和30)年/広島赤十字病院

小学校の同級生は、禎子(さだこ)さんの入院を担任(たんにん)の先生から聞き、交代で病院に

お見舞(みま)いに行きました。卒業式では、出席できない禎子(さだこ)さんの代わりにお父さ

んが卒業証書を受け取りました。入院から約1カ月後、禎子(さだこ)さんはクラスの友達と同じ

く中学校に進学はしたものの、通 うことはできませんでした。

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平和の祈(いの)り

1955(昭和30)年8月6日/平和記念公園

8月6日、外出許可をもらって家族で平和記念式典に参列することにしました。しかし平和記念

公園に向かう途中(とちゅう)、禎子(さだこ)さんは歯ぐきから出血し体調を崩(くず)したので

式典には参加せず、すぐ病院に戻(もど)りました。

平和記念式典

新聞記事 かんじゃに送るおりづる四千 さだこさんの白血球および体温の変化とちりょう

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届(とど)けられたお見舞(みま)いの鶴(つる)

1955(昭和30)年8月3日/広島赤十字病院

8月初旬(しょじゅん)、禎子(さだこ)さんは薬の効果 で首のはれが少しひき、比較的(ひかく

てき)元気でした。しかし両足には紫色(むらさきいろ)の斑点(はんてん)が出ており、少しずつ

病気は進んでいました。8月3日、名古屋から色とりどりの折り鶴(づる)がお見舞(みま)いとし

て病院に送られてきました。その美しさに、入院患者(にゅういんかんじゃ)の多くが自分でも

折り始めました。禎子(さだこ)さんもそれをきっかけにして、病気を治したいという願いを込(

こ)めて折るようになりました。

14

消えた生命

1939(昭和14)年/広島赤十字病院

禎子(さだこ)さんは、自分が折った鶴(つる)に糸を通して、病室の天井(てんじょう)からつる

しました。折り始めて一カ月足らずの8月末までに禎子(さだこ)さんの折り鶴(づる)は千羽に達

しました。それ以降(いこう)も禎子(さだこ)さんは鶴(つる)を折り続けました。9月末、入院以

降(いこう)三度目の白血球の増加が始まりました。次第に自力では歩けないほどに、体調は悪

くなりました。10月25日の朝、家族が見守る中、亡(な)くなりました。