視界ゼロのミコばあちゃん、少しだけ、しりょくおかりできませんか?

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

 今日の寒さも大晦日を演出するには

十分といった答える寒さの始まりである。

局所暖房であれば背中が子寒く感じてしまう。

我が市における同行援護のお方といえば、それなりの年代のお方が多く

利用者側としては、年代も接近しているため、話しやすさもあるが

世代交代となると今のお方が、リタイヤーされると谷間のお人となり、将来への不安才良とも

言える現状対策もいるのではと思えたりもします。

50歳くらいなお方に、視覚障碍者の動向についてお尋ねしたことがある。

そのお方ははっきりと言われもした。

動向であるなら肢体不自由のお方につくのが、わかりやすくしんけいをつかわなくて

よほど気楽で疲れが少ないといわれたことには

驚きを禁じ得なかった。

 視覚ゼロのミコばあちゃん側から、言わせていただくと

危険度の案内と、歩行の誘導だけであるならば

そんなに疲労感など少なかろうと思えたりもしていたので

気持ちの温度差に戸惑いすら覚えてしまった。

同行援護者の命を預かる姿勢にも思いをいたしていきたいものです。

同行援護のお方もさることながら、しかくゼロの者にとって、日常生活の

大半は視力がなければ生活行動がままならないのである。

例えば、携帯などどこに置いたかわからずしばらく探さなければならないのが現状です。

また、運動のための歩行など、毎日取り入れることができたならばと思ってはみても

やはり、これにもすこぶる、元気はあっても、個人行動はままならず

断念せざるを得ないのが現状である。

これらは正眼者のお力なくしては目的など到達しえないのである。

  地域において 日々のお散歩、ちょっとした視力を お借りできることで

視覚障碍者の日常に、どれほど潤いが得られるかしれないのです。

 おばあちゃん、今までは肉親だって、視力を借りた経験がありません。

ではなぜ、他人のお方にまで視力お借りしたいと思えるようになったかといえば

健康年齢をキープしつつ、お一人暮らしの自立生活への挑戦

限界まで頑張ってみたいとも思えるようになってきていることでもあるのです。

これは通常生活者の何倍もの努力は不可欠でもあります。

 学童時であってもよい、ほんの少し、視力をお借りできることで、

どれだけ助かるかしれません。

外出先などで、お声をいただけるだけで

てんにものぼるかのような喜び、舞い上がりそうなほどありがたいものです。

 「あなたの視力を ほんの少しお借りできることで

見えないミコばあちゃんの幸せ気分は相当量にぞうふくするのです。」

皆様のほんの少しのお声がけが、見えないものには心のカンフル剤にもなっていることを、どう

か理解していただけたならうれしい限りです。

見えないことで、請願者のお方には、大いなる遠慮もあります。

どう接触したものかと考え込んでもしまいます。で

 これからはミコばあちゃんなりに 近隣者地域に少し応援の

お声がけの努力を重ねていきたいものと思っています。

   ボランティアへのお声がけの一例の紹介の引用文です。

NPO法人 D-アイの会(であい)

視覚障害者とボランティアさんとで構成する団体です。 

なぜ、私はNPO法人 D−アイの会(であいのかい)をつくったのか

 私は、国立塩原視力障害センターで視覚障害者としての生活訓練を受け、鍼、灸、マッサージ

の第一回国家資格試験に合格して自宅に戻った。家業の製あん所に復帰し、栃木市の視力障害

者福祉会に入会したのは、平成5年5月。私は45歳になっていた。

 そのとき朗読ボランティアと点字ボランティアの団体があり、視覚障害者としては恵まれた環

境だと思っていた。しかしながら、視覚障害者にとって、会議をひらいたり、旅行したり、移

動することが、一番の障害になっていた。それらをカバーしていたのは、弱視の仲間や家族。

そうした人たちの手を借りて会の運営は成り立っていた。ボランティアの人たちとは年一回、

新年会に一部の人たちとお祝いをするだけで、ほとんど接触がないという状態。ボランティア

の人たちも、私たち視覚障害者がどのようにして歩くか、食事をするか、ほとんど理解してい

ないのが現実だった。

 平成7年1月17日の早朝、阪神淡路大震災が発生した。そのとき私は、眼を覚ましてベッドの

上でラジオを聴いていた。大きくは振動しなかったが、長く横揺れが続いたので「これはかなり

大きな地震だ」と思った。それから、刻々と被害の様子が伝えられ、神戸を中心とした地域が

大災害に見舞われていることが分かった。私の知り合いも二人、神戸にいたが連絡を取るすべ

もない。とても心配だった。

 それから10か月後、奈良にあるボランティア団体「歯車の会」の事務局長、青木嘉子さんか

ら、活動報告のテープが送られてきた。青木さんは、奈良から始発電車で被災地に入り、避難

所を回って視覚障害者がいると、もっと非難生活に無理のない場所に移動させたり、安否を確

認したりして、最終電車で自宅に帰るというボランティア活動を一カ月ほど続けた。テープに

は、そのときの生々しい報告が録音されていた。

私はそのテープを聞き、ボランティアの人たちとも良好な関係を作っていかないと、いざという

ときにかなり不自由な思いをすることに気づいた。そして、視覚障害の仲間たちのためにも、

より多くのボランティアの人たちと知り合いにならなければならないと思った。

 私は朗読や点字ボランティアのほかに、なにかとサポートしてくださるボランティアが必要だ

ということを文章にし、市役所の記者クラブで会見をさせていただいた。それが、ほとんどの

新聞の栃木版に掲載された。そして、県内各地から、ボランティアとして活動してもよいとの

申し込みが20人ぐらい集まり、交流会を立ち上げるところまできた。

私が一番重きを置いたのは、障害者とボランティアの人たちが日ごろ接する機会を持てるように

すること、一つの団体にすることだった。役員は、視覚障害者とボランティアの双方で構成す

ることを中心に置いた。そして、平成10年4月10日、青木嘉子さんをお招きして、講演会を栃木

市の文化会館で開くことができ、だんだんと現在のD−アイの会の形ができあがってきた。そし

て、行政から視覚障害者の移動支援の事業を委託されることになり、NPO団体として栃木県

の認可を受けて、現在のNPO法人 D−アイの会(であいのかい)に育っていった。しかし

、不本意ながら、元々あった栃木市視力福祉会や朗読ボランティア団体の人たちには受け入れ

てもらえなかった。

会は現在は、旧栃木市視覚障害者20数人、ボランティア40数人の団体になり、あらゆる活動

ができるようになった。このことは、定年退職された有能な人たちがボランティアとして参加し

てくださっているからで、ほんとうにありがたいことだと深く感謝している。活動の様子は、

私のホームページに映像で載せてあるので、ちょっとのぞいていただけたらありがたい。

D-アイの会のクリスマスパーティ

12月23日 片柳町公民館にて。 

YouTubeプレーヤー

   ミコばあちゃんの本日のスタートメニュー。

 ご飯、豆腐、わかめ、ねぎの味噌汁。

荒野、シイタケ、肥料図の煮もの

ブロッコリーの胡麻図あえ、ヨーグルト、バナナ。

  お一人暮らしの、視界ゼロのミコばあちゃん。とっても元気です。

いやいや、元気は出すもんだと思ってもいます。

今年の更新は終わりを迎えました。

パソコンは初心者ではありますが

やりたい優先順位を大切に

マイペースで、あきらめることなく

自分を 大切にしながら公開の少ない日に勤めたく思います。

 来年は5日より投稿したく思っております。

お人の出会いに感謝しながら、おとぼけライフさらなる磨きかけたいものです。

来年もどうぞよろしくお願いします。

    ではごきげんよろしゅうに・・・。  どうかよいお年お迎えくださいませ・・・。