ミコばあちゃんの一人語り。

 ご機嫌いかがでしょうか。視界ゼロのミコばあちゃんです。

前回よりの続きです。

 父の葬儀に参列すべく、同行援護もお願いし

誰にも迷惑かけぬ準備、それなりに手配していた。

そんな私に、喪主である兄からの「お前は葬儀には出なくてよい」の真坂、まさ」の一言に

実態を受け入れるまで、どのくらいな時間が経過したことであろうか。

以前からの兄夫婦の対応から

障碍者を受け入れられない意思は

随所に表現もしていたので

それなりに気を使っても来た。

 気兼ねしてきたつもりであるが

私の想像を超えるほどの苦悩ぶりに接したとき

自分に及ぶ悲しみや、痛みであればいくらでも耐えられもする。

実兄ゆえの越えがたい苦悩、どうしてあげることもできず私なりの気配り、配慮は神経をすり減

らすほど

重ねてきた。

これ以上何をなすべきかさえ

浮んでは来ない。

 それからの私は、この世からいなくなることしかできないと

実兄へのお詫びの文章と

父の葬儀代、通帳などをひとまとめにし

死への旅立ちの準備、冷静に迷うことなく進め

夜明けを待たずに実行した。

その日は葬儀のため家に立ち寄るものもないので

成功裏に実行できた。

  気が付けば病院のベッドの上で生還を受け入れなければならなかった。

さらなるいばらの道しか残されてはいなかった。

 退院後は、実兄の家に連れていかれ、一泊した。

一人で家に帰れるものならすぐにでも帰りたかったが

その道筋さえ自由にはならなかった。

 退院した夜、あn義理の姉が、私が置いていた現金、それに通帳の類をテーブルに広げ私たち

が面倒みるから、この名義を

甥の名義にしてほしいといわれ

もう全部あげるから、うちに帰りたいと申し出ると

私を銀行に連れていきたいとお金に対する

執着心を前面に出す。

3分の2ぐらいの通帳は現金化していた。

まるで地獄絵そのものであった。

体調がすぐれないから家に帰してほしいと嘆願し

元気になったら応じることを約束し

家に帰ると、そこは

空き巣でも入ったかのようなさんざんに荒れ放題で言葉を失った。

でも、涙さえ出はしなかった。

 なんとか寝るとこだけは確保しやっと横になることができた。

一日だってもう生きたくなどなかった。

悶々とした日々、どれほど過ごしたであろうか。

精神はズタズタに砕け散っていても、生への営みだけは

意思とは無関係に現実を,受け入れている生理が恨めしく思えて仕方なかった。

こんな日々を続けていたのでは、地獄の底を這いまわるしかないと

考えをめぐらすようにもなっていった。

 死か生きるかの二社択一しかないと決断してからの行動は早かった。

兄との決別も決め、これ以上兄に気兼ねすることはもうやめようと思った。

 自分を生きるための設計図など何も描きはできなかったけれど

まず自立の一歩は歩行しかないと思うようになり

市役所のお方から、在宅訪問による歩行指導が受けられることを知り

早速連絡を取り、歩行訓練をお願いした。

色んな紆余曲折を体験し、現在のミコばあちゃんです。

小さな地震を重ねることで、明日への道筋が描けていけたらと

挑戦の日々が続く

見えない生活を、私なりに快適に近いものにできればとの思いが強い。

 ミコばあちゃんの初公開でした。失礼しました。