過労死なんって、これ以上起きてほしくない??

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 カンタ様、お惚けババちゃんブログに

お立ち寄りいただきありがとうございます。

パソコンといえば、万年初心者の域を脱しきれないでいます。

 働き方改革は言われ始めて久しい。

 現場の労働者不足と、企業事情の板挟みの中

「無理無理、もう無理」が日常茶飯事のように

気が付けば、深夜労働になっていたことはないだろうか?

【鬱省】などの体の病気が働くことで生じたなら

その回復期間が十分保証されるどころか

その労働が期待できないとなると、まるで雑巾みたいに

ほおり出される企業実態を把握すべきではないのだろうか…?

自治体の移動先によっては過酷なほどの労働負担も有るという。

 人口知能の利用によって、改善されるべきは改善が急務でもあります。

体を壊すことで本人の苦痛はもとより、国レベルの労働力の欠如にもつながり

 皆が少しづつゆとりを感じられる労働対策

労働の欠如に当たっては、「ob対策」の補充も視野に欲しいものです。

、天国に旅立ち宅などありえない…! きっと、いとしく限りなく大切な家族を残して

まーくんのいる世界を見たかった : きみといっしょに。〜死別。旦那が突然死にました

http://www.kimitoissyoni.com/archives/11061146.html

   東洋経済からの引用です。

「過労死」した46歳自治体職員の悲劇と妻子の今 -

2000年にお父さんを亡くした6歳の男の子、マー君の言葉だ。「ぼくの夢」というタイト

ルの詩となり、20年近くたった今も大切に読み継がれている。

わたし自身、この詩を読むたびに涙がこみ上げてしまう。大好きなお父さんが急にいな

くなってしまったマー君。愛する妻子を残して命を絶たざるをえなかったお父さん。2人

の気持ちを思うと、胸が苦しくなる。

マー君の父、塚田浩さん(仮名)は、和歌山県橋本市自治体職員だった。かかえきれ

ない仕事の山に押しつぶされ、2000年3月に自ら命を絶った。当時46歳。働きすぎが原因

うつ病になり、最悪の結果に至る「過労自死」の典型例といえる。マー君が心からし

たっていた「お父さん」は、どんな人だったのだろうか。

『過労死?その仕事、 命より大切ですか』では過労死遺族の「今」に迫った。

子煩悩なパパに訪れた転機

2015年10月、わたしは和歌山県橋本市にある塚田さん一家の住まいを訪ねた。浩さんの

妻、美智子さん(仮名)が取材に応じてくれたのだ。

仏壇に案内してもらい、線香をあげると、浩さんの遺影があった。髪を七・三に分け、

メガネをかけてほほえんでいる。自然体の笑顔は、これから大切な取材を始めようとい

うわたしの緊張感を解きほぐしてくれた。

塚田浩さんは地元の橋本高校の出身。兵庫県の大学を1977年に卒業すると、地元の橋本

市役所に入った。水道の管理や年金の事務などに携わったが、律義な性格が買われ、ど

の部署でも周りからの信頼は厚かった。 ?

家に帰れば子煩悩なパパだった。1988年に長女が生まれると、浩さんは「名前は生まれ

てはじめての贈り物だ」と言い、名付けの参考書を7冊も買いこんだ。数年後に美智子さ

んがマー君を授かったとき、飛び上がるほど喜んだのは言うまでもない。歴史が好きだ

った浩さんはしばしば、幼稚園児のマー君を近くの郷土資料館につれていった。小さな

息子に昔の道具の使い方を熱心に教えていたのを、資料館の元職員が覚えていた。

幸せを絵に描いたような家族の暮らしが断ち切られてしまうとは、誰が想像できただろ

うか。転機は1996年春に「総務管理課文書係」に配属されたことだった。

職員の給料から市内の施設の運営まで、市政のルールは「条例」や「規則」で決まって

いる。それぞれに担当課はあるが、ともに条例・規則の文案をつくり、市議会に提出す

るのが文書係の主な仕事だ。行政文書に誤りやあいまいな点があってはならないが、担

当課は条文の書き方には詳しくない。文書係が担う役割は大きかった。

最初の不調は1999年4月の胃潰瘍だった。心労が重なったものとみられ、2週間の病気休

暇をとった。その後も医師からはさらなる静養を勧められたが、浩さんは「出勤する」

と言い張った。

「お父さん、命と仕事とどっちが大事なの?」

美智子さんは必死で止めたが、浩さんは首を横に振った。

「あの仕事の山を思い出すと家でゆっくりと寝てられない。余計ストレスがたまる。す

まん。仕事に行かせてくれ」

無理がたたり、半年後の1999年11月に胃潰瘍が再発した。それでも浩さんは働き続けた

2000年3月の議会に提出する条例案は、山のようにあった。夜の8時、9時ごろまで役所で

働き、帰宅後も1時間ほど休んでから深夜1時ごろまで書斎にこもった。翌朝は5時起床。

一日の睡眠は4時間ほどだった。

異状は美智子さんの目にも明らかだった。顔色がめっきり悪くなった。温厚な人柄は影

を潜め、イライラする機会が増えた。

「夢の中でも寝言で仕事の話をしていました。電話の応対だったり、条例のことを説明

していたり。はっきりとした大きな声でした」(美智子さん)

忙しい父を支えるため、マー君もけなげにがんばった。休日になると「お父さんは寝て

いるから」と言い、自分から外に遊びに行った。幼稚園で発表会があった日、市役所勤

めのほかのお父さんは見に来たのに、浩さんは来られなかった。そのときも文句一つ言

わなかった。

家族一丸となって苦しい時期を乗り切ろうとしたが、2000年3月の議会の直前になって、

疲れ切った浩さんをさらなるアクシデントが襲った。条例案の一部にミスが発覚したの

だ。部下が担当した部分だったが、浩さんは大きな責任を感じた。

3月のある朝、自宅を出た浩さんは市役所に出勤せず、和歌山県大阪府との境に位置す

る紀見峠に向かった。そして生まれ育った我が家が見渡せる峠の上で、自らの命を絶っ

た。

浩さんが残していた遺書

亡くなる直前、浩さんはなにを考えていたのか。心境を推し量るため、遺書を紹介した

い。

市長宛てにはこう書いていた。

そして、マー君にはこんなメッセージをのこしていた。

愛する家族の存在があっても生の世界に踏みとどまることができない、浩さんの絶望的

な気持ちが、この文面にあふれている。ここからはわたしの想像だが、亡くなる最後の

瞬間まで、浩さんの心には「生きたい」という気持ちが残っていたと思う。それでも生

き続けられないほど、疲れ果ててしまったのだろう。命のガソリンを使い尽くしてしま

ったのだろう。

過労死、過労自死の記事を書いていると、「死ぬくらいなら仕事を辞めればよかったの

に」という感想を聞くことがある。

いわゆる「自己責任論」の1つだと思うが、よく考えてみてほしい。塚田浩さんの心身が

もし正常な状態だったら、愛すべき家族を残して命を絶つわけがない。

紀見峠に立ったとき、浩さんは「仕事を辞める」という選択肢が頭に浮かばないほど、

深刻な心の病(うつ病)に陥っていた。それは間違いない。そんな状況の人に自己責任

論を振りかざしても意味がない。もっともっと手前、働きすぎで心の病にかかる前に、

手を打たなければならないのだ。

亡くなってから3年以上たった2003年12月、浩さんの死は公務員の労災にあたる「公務災

害」と認定された。仕事が原因で亡くなったことを公式に認められたということだ。正

式に認定された死亡前1カ月(2000年2月)の残業は117時間だったが、家での仕事を含め

た遺族側の計算では200時間近くにのぼっていた。脳や心臓の病気について国が定める過

労死ラインは「月平均80時間超の残業」である。少なくとも過労死ラインを超える働き

方を世の中から一掃しない限り、過労死はゼロにならない。

幼い子どもにこんな悲しい思いをさせることは、2度とあってはならない。

「過労死のない社会になって欲しい」残された妻の願い

浩さんが亡くなってから19年が経ち、マー君はいま、立派な青年になっている。

「タイムマシーンをつくる」と言ったころから、マー君は科学の本をたくさん読み始め

た。小学校高学年になると、顔をしかめて「タイムマシーンは難しいみたい」と母の美

智子さんにつぶやいたこともあった。

そうしたことが下地にあったのか、理系の大学に入り、大学院にまで進んで、新薬の開

発などの研究をしてきた。昨年の春に民間企業に就職。タイムマシーンはあきらめたが

、別のかたちで誰かの「命を助ける」という目標を持ち続けているという。

「息子が安心して働ける、過労死のない社会になってほしい」

それが美智子さんの切なる願いだ。

脱炭素に向け、わが暮らしの見直しも… …?

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 日出のオレンジの太陽がまぶしく温かさを呼び込んでいます。

 放射性セシュウムは、森林深く、この地球上にとどまりつづけております!

 これだけ自然災害が起きれば、どこにだって【ブラックout」は起きるのではと

止めおきたいものです。

停電も少なく快適当然かのように使い続けられているらいふらいん!

 今日突然、ライフラインがとまったならどうでしょう?

 昨年の西日本災害においても、ライフラインが止まり

並んでいただいた飲料水のありがたさは言葉になりませんでした。

生活が満たされると、いつの間にか日々の豊かさが「当たり前」となっています。

 我が国のエネルギー源は他国に依存しないと供給不可能です。

エネルギー源の自立への道は皆無です。

 脱炭素に向け、不確実性は危機として進んでいないのが現実です。

②エネルギー技術間の競争が生む「不透明さ」

近年、技術革新によって、再生可能エネルギー(再エネ)やシェールガスの価格は下落

しています。これらの新しいエネルギーに転換すれば、経済成長をはかりつつ脱炭素化

が実現できるのではないかと期待されています。しかし、現在の太陽光や風力発電は火

力発電による補完が必要で、それ単体では脱炭素化を実現できません。一方、新エネル

ギーに対抗する形で、化石燃料原子力などの従来エネルギーについても、水素化や小

型化などの技術革新が生じています。

脱炭素化が可能で、経済的で、そのエネルギー需要を単体で満たすことができる“完璧

なエネルギー技術”は実現しておらず、将来的に実現するかどうかも不確実です。また

、2050年に向けては、さまざまなエネルギー技術の間で技術競争が本格化することが予

想され、その情勢がどのように変化するのか、どのような国や企業が主導権を握るのか

、いまだ不透明です。

③技術の変化が地政学的リスクを増やす

こうした技術の変化は、地政学的なパワーバランスにも影響をもたらします。国際エネ

ルギー機関(IEA)によれば、エネルギー情勢が石油による地政学的リスクに左右される

構造は続くと見られています。一方、新興のエネルギー大国が経済的パワーを通じても

たらす地政学的リスクも起こりえます。特に、再エネや原子力などエネルギーの脱炭素

化をになう分野について、エネルギーに関するコア技術を自国で握り革新をリードする

という、「技術自給率」を重視する必要が出てくると予想されます。

再エネの主力化がもたらすエネルギー安全保障への影響

再エネが主力電源となった時どのような地政学的問題があるかをまとめた表です。

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④国家間・産業間の競争の本格化

前述したように、エネルギー転換・脱炭素化に向け、国家間の覇権争いは本格化してい

ます。主要国は野心的な戦略を掲げる一方で、その達成方法についてはコミットしてい

ません。欧米の主要エネルギー企業も、野心的ではあるものの、したたかで多様なエネ

ルギー転換・脱炭素化の戦略を掲げており、金融を巻き込んだ、産業間の競争も激しさ

を増しそうです。

こうした「可能性」と「不確実性」をはらむ情勢の変化に対して、日本も、世界のエネ

ルギー構造変革に挑戦していくことが求められます。

「可能性」はあるが「不確実性」が高い2050年に向けたシナリオ設計の考え方

複雑で予測困難な環境下での2050年シナリオは、現行の「エネルギー基本計画」で採用

したような、「2030年のエネルギーの姿」という単一ターゲットを掲げるだけでは対処

が困難です。野心的なゴールを掲げつつも、状況変化に応じてこれを設定し直す「しな

やかさ」が必要となってきます。

また、エネルギー選択は各国固有の環境を反映したものにするという点を重視する必要

があります。日本固有の特徴には、どういった点が上げられるでしょうか。

①エネルギー安全保障の厳しさ

日本は、自国の化石資源に乏しい国です。また、国際的なパイプラインや国際送電線も

ありません。さらに、中東に依存している度合いは、主要国の中で突出して高い状況で

す。

主要国と比較した日本が置かれている状況

主要国と日本で、自給率や国際送電線などについてどのような違いがあるか比較した表

です。

日本は資源に乏しく、国際的なエネルギー連携も難しい

大きい画像で見る

②「安定的で質の高い電力」に対する要求の高さ

人口減少により、長期のエネルギー需要は量的に増大し続けるとは見込まれません。一

方で、停電などが少なく安定した電力供給を長期にわたって実現しており、このような

高い品質の電力に対する要求は今後も続くと思われます。

③すでに充実したインフラ

日本経済は成熟しており、エネルギーインフラ(送電線、ガスパイプライン、ガソリン

スタンド)が、すでに全国に張り巡らされています。

④産業・技術の強さ

エネルギー多消費産業を中心にエネルギー効率はきわめて高く、高信頼のエネルギー技

術を持ちます。また、そのような技術に基づくサプライチェーンを構成しています。

こういった日本の特徴をしっかりと認識しながら、「可能性」はあるが「不確実性」が高い2

050年に向けて、しなやかなシナリオを設計していくことが大切です。

「脱炭素化」「可能性」「不確実性」がこれからのエネルギーのキーワード

これらの情勢分析や日本の立ち位置を踏まえて、情勢懇談会では提言をまとめ始めてい

ます。まとめるにあたっては、以下の3つの点が踏まえられています。

まず、福島第一原発事故をエネルギー政策の原点におくという姿勢は変わらないという

ことです。2050年のエネルギー戦略を考えるにあたっても、原子力についての検証・検

討は欠かせないものであり、事故から得られた教訓をどのように活かしていくのかを示

す必要があります。

「少しでも貢献を」震災で身にしみた大切なもの、仕事に

https://www.asahi.com/articles/ASM2D6G4VM2DUGTB00L.html

   我が心のエッセンス。

目先の小さなエゴを優先するのは良くありませんが、一生を通して見た時に、自分の気

持ちを無視してきたと、後悔したくはありません。筋の通った建設的な意見なら、周り

の人にとっても利益になると考えてみましょう。

DV女性夫婦も男性に匹敵するくらいあると言う。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 昨日は、荒れ狂ったかのような強風。

本日は一変したかのような太陽ニコニコ上機嫌。

温度の乱高下に体が追い付かない感じ。

 女性のDV夫婦もかなりの数値として挙げられているとか!

 女性が強くなり境目も危うい夫婦にとって

家の中で繰り広げられているすさまじさは

外見からわからない苦悩もあることでしょう

まして男性が家庭内の負を語ることは少ないことでしょう。!

男性が被害者になる「逆DV」も多発

実は少なくない男性のDV被害者

実は少なくない男性のDV被害者

DV(ドメスティックバイオレンス)というと男性から女性へ、というのが真っ先に思い

浮かびますが、実は「逆DV」とも呼ばれる、女性から男性へのDVも少なくありません

。「男性として恥ずかしい」から誰にも相談できなかったり、また、思い切って相談に

行った先の担当者から心ない言葉をかけられて、二重の苦しみを味わったり、「男は女

性に手を上げるものではない」という道徳観から暴力を受けても無抵抗のままであった

り……。

男性のDV被害は、ある意味女性以上に世の中に報道されにくく、また救いを求めての相

談もしにくいものになっています。例えば、平成21年度に横浜市が行った「配偶者から

の暴力に関する調査及び被害実態調査」によると、DVの被害経験は女性が43%に対し、

男性は42%とほぼ同率。ところが、誰かに相談したのは女性が28%に対し男性は8%だっ

たそうです。

女性から男性へのDVの特徴

女性から男性へのDVの中身については、「殴られた」「蹴られた」などの身体的なもの

のほか、「怒鳴る」「脅す」などの精神的なものも多く、「稼ぎが悪い」「もっと働け

」など、収入に関することが暴力の原因として目立つのも特徴です。さらには「小遣い

を渡さない」「外出制限」「食事を与えない」など、日常生活に関することでじわじわ

と痛めつける傾向があるのも、家事や家計を握っている女性ならではのDVと言えるかも

しれません。また、うつ病など、夫が抵抗しにくいことに乗じての暴力もみられるそう

です。

DVの原因としては複数の要因が考えられますが、ひとつは経済的な不満や不安があげら

れるでしょう。「金の切れ目が縁の切れ目」ではないですが、収入が不安定であったり

、生活するのに十分な収入がないことへの不満が働き手である夫に向かっていることが

考えられます。

また、最近、頻繁に報道される子どもへの虐待やネグレクトなどもそうですが、自分よ

り弱いものを攻撃することで自分の地位を相対的に高めようとする心理もDVの要因の

一つと考えられます。これは、両親に愛されたり信頼されたりという経験が少なく育っ

たために自己肯定感がもてず、自分に自信がないことの裏返しであったり、逆に過保護

・過干渉に育ったことで自己愛が強い性格になってしまうことなど、女性側の生育環境

にも原因がありそうです。さらに、昔と比べると夫婦平等の考え方が浸透し、夫や父が

絶対的な権威を持つ家庭はごく少数派になっています。この点も、男性に対して暴力を

振るうことへの抵抗感が薄れた原因と考えられます。

男性のDV被害を減らすには?

では、女性から男性へのDVをなくしていくにはどうしたらよいのか。まず一つは、「男

性がDV被害者になることは特別な例ではない」ということを、このようなサイトで情報

発信をしたり、マスメディアが報道することで、世間全体での認知を高めることが大事

だと思います。被害者も「自分一人ではない」と思えば、周囲に相談をするなど、外に

向けて動き出す勇気を持つことができます。男性であれ、女性であれ、暴力でパートナ

ーを支配しようとすることが間違っているという認識を、世の中全体に高めることが大

切です。

   東洋経済よりの引用です。

結婚5年で別れた銀行員が妻から受けた壮絶DV -

「離婚の理由は、元妻のDVです。殴る、蹴る、髪をつかまれるなど、ありとあらゆる暴

力を受けましたね。元妻のDVは、まるで総合格闘技のようでした。今でもここに、元妻

のひっかき傷が残って消えないんですよ」

そう言うと、荒川敦さん(33歳)は、頬を指さした。確かに、左頬に斜めにうっすらと

鋭い線が入っている。

敦さんは、28歳で結婚し、33歳で離婚。5年間の結婚生活に終止符を打った。5歳年下の

桃子さん(結婚当時23歳)は、短大卒業後に入社した銀行の後輩だった。職場でも指折

りの美人だった桃子さんに、敦さんのほうからアタックする形で交際が始まり、ほどな

くして同棲。その後、桃子さんの妊娠が発覚して、結婚することになった。

LINEも使わせてもらえなかった

かつての敦さんは、男女共に友達が多かった。中学、高校、大学の同級生は男女関係な

く仲がよくて、メールでやり取りをすることもあった。しかし同棲が始まるようになる

と、桃子さんはそのやり取りに激怒した。

こちら

「『お前は浮気をしてるから、いますぐ連絡先を消せ』と言うんです。元妻の感覚では

、女友達と連絡を取るのが、浮気になるんです。いやいや、待ってというと、『なんで

オメーは私のいうことを聞かないんだ!?浮気しているくせに連絡先を消さないなんてお

かしいだろ!?お前の女友達はみんなアバズレだ。さっさと消せ!』とスマホを投げつけ

てくる。

『浮気するやつは、LINEを使っちゃだめだ』と言うようにもなりました。その浮気の定

義はおかしいと言うと、『浮気しといて私の言うことがなんでできないの!?反省してな

いのか!?オメーが浮気をしたからだろ!』とヒートアップして、ボカッと顔を殴ってく

るんです。妻は体育会系で元柔道部なので、投げられることもありました」

その後、敦さんのLINEのアプリは抹消され、FacebookなどのSNSをすべて禁止すると言い

渡された。少しでも反抗すると、殴られるようになる。敦さんは友人と連絡を取ること

すらできず、徐々に孤立していく。それまでは、お互い下の名前で呼んでいたが、桃子

さんの怒りが激しくなると、「オメー」と罵倒されるようになる。会社と親族以外の人

間関係をほとんど絶たれ、桃子さんの支配はますます強くなっていった。

いつも暴力のきっかけは些細なことだった。

「とにかく何に対しても突っかかってくるんです。例えば洗濯物を干すときに、洗濯ハ

サミの留め方が気に入らないと言うんです。日々の家事でそこまでクオリティにこだわ

ってたら大変だよと諭すと、『ふざけんなよ。お前が私のいうこと聞けばいいだけだろ

!?なんでいちいち説明しないとわかんねぇんだよ!』と突然ヤンキー言葉になって、平

手が飛んでくるんです」

歩く音が気に入らない、靴の並べ方がおかしい、食器の並べ方が変、しまいには、子ど

ものおむつのテープの位置が1センチずれていただけで、平手が飛んでくるようになる。

仕事から帰ってきて、疲れてリビングの椅子に座っているだけで、桃子さんはすさまじ

い形相で、怒りをぶつけてくる。

「椅子に座ってるだけで『すぐに立って、子どもをお風呂に入れろ!』と怒られるんで

す。悪いけど、疲れてるから1分だけ座らせてくれと言ったら、『そんな時間ねーよ!』

と絶叫しながら、ミドルキックが入るんです。ぐぇっとなりますね」

食器かごの食器の並べ方1つとっても、いら立ちの対象になった。

「コップや、皿の並べ方にこだわりが強くて、それが少しでも狂うとブチ切れるんです

。『なにこれ??前に教えたよね。あんたの食器の並べ方はおかしいから。なんで何回も

言ってんのに覚えることができないの!』といきなり、足を蹴られるんです」

バカ、デブ、てめー、醜い、汚い、臭い、ゴミ、くず、役立たず、疫病神、死ね。あり

とあらゆる罵りの言葉が、桃子さんの口からは飛び出し、奴隷状態だった。

なぜやり返さないのか

あまりにも桃子さんのDVがひどかったので、敦さんが大学時代の親友に相談すると、ア

バイスをくれた。

「お前、なんでやり返さないんだよ。お前が反撃しないから、妻がつけあがってDVがひ

どくなるんだよ。1回やり返せば、もうやらなくなるよ」

それもそうか、と敦さんはハッとした。敦さんは、それまで暴力に対してなすがままに

なっていた。これまで一度も女性に暴力を振るったことはなかったし、反撃という考え

も浮かばなかった。女性への暴力は嫌悪感しかなかったが、致し方ないかもしれない。

翌日、桃子さんに20発ほど蹴りを入れられたところで、ふと反撃を思い立った。

「これ以上やるんだったらやり返す。だから、お願いだからやめてくれ」。懇願したが

、桃子さんは容赦なく敦さんの足に蹴りを入れてきた。そこで、敦さんは2発だけ桃子さ

んの足を蹴った。

翌日、仕事から帰宅した敦さんに、桃子さんは1枚の書類を突きつけた。それは、医師の

診断書だった。

「『あなたは私に対して暴力を振るった。だからこれからは、私がいくら暴力を振るっ

てもお互い様だ』と言うんです。妻は、そういう面では頭が回って、行動力があるんで

す。暴力を受けている最中は、おかしいとか理不尽だという感情があるんですけど、不

思議と慣れるんですよ。何を言っても最終的には、暴力が待っているので、徐々に相手

を非難する気持ちがなくなってくる。DVの被害女性と心理はまったく同じだったと思い

ます」

当然ながら、力は敦さんのほうがあるため、動きを一時的に制止することはできる。「

お願いだから暴力はやめてくれ」と、腕を押さえつけると、一旦は「わかったから離せ

!」と桃子さんは言うもののも、離すとすぐに平手が飛んでくる。一度やめても結果は

同じなので、無力感に支配され、なされるがままになってしまうのだ。

子どもが生まれて潔癖になった

子どもが生まれてから、桃子さんは、神経質になった。次亜塩素酸とアルコールの消毒

液を大量に買い込むようになり、疲れて帰宅すると、すぐに手を洗うことを強要された

。1分でも遅れると、お腹を殴られた。

「子どもが生まれてから異様に、潔癖になりましたね。暴力に耐えかねて、僕が玄関に

逃げようとすると、腕をつかんで監禁しようとする。ギリギリと、皮膚が裂けていくん

です。血が出ます。めちゃくちゃ痛いんですよ。肉が裂けるって、こんな感じなんだな

と思いました。腕のひっかき傷がすごすぎて、夏場なのに長袖で隠して出勤していたこ

ともありました」

敦さんは桃子さんの暴力がひどくなるたびに、恐怖感から、家を出ていかざるをえなく

なった。暴力に耐えかねて、敦さんが部屋の外に逃げようとすると、桃子さんは追いか

けて、敦さんの腕をつかみ、爪を食い込ませ、必死に妨害した。メリメリと皮膚が裂け

て、血が出るのがわかった。腕はミミズ腫れになり真っ赤になった。

なんとか振り切って逃げ、マンガ喫茶で一晩を過ごした。翌朝敦さんが家に戻ると、マ

ンションのチェーンロックをかけられていて、中に入ることができなくなっていた。

「こっちは出勤時間も迫ってるし、早く着替えて会社に行かなきゃいけないんです。と

にかく入れてくれ、謝るから入れてくれと言うしかない。そしたら『え?何に対して謝

ってるの??それ、本気で謝ってないよね?』と、押し問答が始まるんです」

雪が降りしきる冬の日でも、敦さんは、何時間もドア越しに桃子さんと話をしなければ

ならなかった。そんなことが幾度となく繰り返された。

ある夜、暴力に耐えかねて家を出た後、帰宅した敦さんに対して、桃子さんは「今日、

東京タワーにいたでしょ?」とそれまでの居場所を言い当てた。確かに、家を出た後、

東京タワーの近辺で時間を潰していた。しかし、なんで自分の行動がバレているのだろ

うか。桃子さんに問いただすと、妹がそこでバイトしていて、偶然敦さんを見かけたと

言う。しかし、そんな偶然はありえないと思った。よく考えると、最近会社での行動が

やたら、桃子さんに把握されている。敦さんは、ハッとした。

「以前妻が僕のアップルIDとパスワードを教えろと言うので、教えたことがあったんで

す。僕のスマホには、アイフォンを探すというアプリがあって、これを使うと、家族の

居場所もGPSで検索できるんです。元妻はGPSの位置情報を使って、僕をつねに監視して

いたみたいです。ゾッとしました。完全に支配をしたいんだ。僕をコントロール下に置

きたいんだなというのをすごく感じましたね」

右利きを強要

いちばんつらかったのは、左利きの敦さんが、右利きを強要されたことだ。

「元妻は、『ご飯は左手ではしは右手に持つのが、日本では決まってる。右利きは世間

の常識だ』と言うんです。『子どもの教育上、右利きを守れないのはよくない』。だか

ら、僕にも『左利きを直せ』と強要されたんです。だけど、直すのは無理なんですよ。

努力はしましたが、無意識で30年間やってきたことを直すのは大変で、ちょっと気を抜

いただけで自然と戻っちゃうんです」

ご飯茶碗と味噌汁を逆に置くと、鬼のような形相で睨みつけられた。そして、「あなた

は何回注意しても守れない。言ってわからないんだったら、罰を与えるしかない。1回決

まりが守れないごとに罰を与える」と怒鳴られ、すさまじい勢いで平手が飛んできた。

植物用の霧吹きで顔面に水を掛けられるという罰もあった。

「言うことを聞かない動物に対して、調教しているのと完全に同じなんです。一応、僕

も『何をするんだ!』と抵抗するんですが『しょうがないじゃん。できないお前が悪い

。お前は1回教えてもわからないんだから』と言われるんです」

桃子さんによるDVは、深夜2時、3時まで長時間に及んだり、夜通し続いたりすることも

ざらだった。

産休から育休の期間、仕事を休んで昼夜逆転の生活を送っている桃子さんは、平日の夜

に口論をけしかけてくることが多かった。昼間も仕事をしている敦さんにとって、それ

は地獄のような時間だった。

「夜、寝かせてもらえないのは、日常茶飯事でした。明日仕事だから、頼むから寝よう

とお願いしても、全然きかない。言い合いをしている最中、すげー眠くなるんです。で

も、コクリコクリとし始めたら、なんで話聞かないんだ!と蹴られる。寝不足で、ボー

ッとした状態で職場に行くことも何百回とありましたね。外回りで営業車を運転しなが

ら、寝落ちしたこともあるんです。下手したら事故を起こして大惨事につながっていた

かもしれないと思うとゾッとしますね」

桃子さんの容赦ない暴力は顔面にも及んだ。頬に爪を立てられ、全力で引っかかれ、肉

がえぐれた。斜めに裂けた傷が3本残った。それでも出社しなければならない。翌朝、そ

の傷を見た上司や同僚に「お前、いったいどうしたんだ!」と驚かれた。

「とても、妻にやられたなんて言えないんです。だから、酔っぱらいに絡まれたと言い

ました。今思うと、すごく苦しいウソをついてごまかしていましたね。あと、当時は営

業職だったので、顔に傷があると顧客に不審がられるんですよ。だから、帰って、元妻

に『お願いだから顔だけはやらないでくれ』とわけのわからないお願いをしていました

ね」

命の危険を感じたこともある。横になっている最中に頭を蹴られた。打ち所が悪かった

らどうなるかと、ずっと思っていた。

桃子さんは、口論になると「本当は、お前を刺してやりたいと思ってんだよ!」と絶叫

するようになった。いつ包丁を持ち出して待ち構えているかと想像すると、敦さんは気

が気ではなかった。

離婚後、自殺を考えた

ある夜、桃子さんに平手打ちをされたとき、耳がキーンとなって、しばらく聞こえなく

なった。

思わず、「あなたがやってるのは、暴力だし犯罪だからやめて!」と諭すと「だったら

警察呼べば!?」と怒鳴られた。もう無理かもしれないと思った。今まで考えもしなか

ったが、一度警察に怒られたら頭を冷やしてくれるかもしれない。そう思って、敦さん

は初めて110番通報した。しかし、やってきた警官には民事不介入と言われ、親身になっ

てはもらえなかった。

敦さんが警察を呼んでからというもの、桃子さんの態度は一変した。それまでは、口論

になっても最終的に家に入れてもらえたが、それ以降、チェーンロックをかけられ、家

には一切入れてもらえなくなった。そのため、敦さんは実家での生活を余儀なくされた

ある日、桃子さんの不在時に家に戻ろうとすると、鍵を差し込んでも開かない。桃子さ

んは、部屋の鍵を変えていたのだ。マンションの契約名義も、家賃の引き落とし先も自

分の口座なのに、なぜ、家に入ることすらできないのか。敦さんは思わずカッとして、

鍵屋を呼んで開けてもらった。代金を精算している最中、突然威圧的な態度の警官がや

ってきた。

「おい、お前なんで来たかわかってるよな!」(警官)

どうやら、桃子さんは部屋に監視カメラをセットしていたらしく、敦さんが部屋に入っ

たとわかると、すぐに警察に通報したらしい。

「本当に、あのときの警官の態度は頭にきましたね。自宅に入るのに、不法侵入なんて

成り立たないはずなんです。なのに、男というだけで不審者扱い。自分の家に入ろうと

して、なんで悪いのか、教えてほしいですよ」

話を聞いてくれない調停員

その後、桃子さんとは離婚へ向けて動き出すこととなった。自分へ向いていた分の暴力

が子どもにいくかもしれない。敦さんは、それが何より心配だった。そのため、子ども

の親権だけは取ろうと思った。

「調停員は、70代くらいの男女で、母親に親権が渡るのが当然のような態度なんです。

『離婚して月1回会えばいいじゃないですか。それの何が問題なんですか』と言ってくる

。僕が、子どもたちが虐待されるかもしれないと涙ながらに訴えても、まったく聞き入

れてくれない。ましてや、僕がDVを受けたなんて言ってもお互い様と言って、まったく

取りあってもらえませんでした」

離婚は成立したものの、結局親権は母親で、敦さんは月1回の子どもとの面会という条件

に応じるしかなかった。

敦さんは、1人でいると次第に死にたいと思うようになっていった。車を運転していても

、そのまま突っ込めば、楽になれるのに、と思ってしまう。それでも何とか踏みとどま

っているのは、子どものことを考えたからだった。敦さんは、DVの診断書を取っていな

かったため、自らの言い分を立証することができなかった。

元裁判官の男性は、敦さんの事例について、「男性が加害者、女性が被害者、子どもは

母親が育てるほうがいいという先入観を裁判所が持っている以上、男性も被害を受けた

ら診断書を取ったり、育児休業を取得したりして、『証拠』で覆す必要がある」と話し

ている。

現在、敦さんは精神科で双極性障害と診断され、会社を休職している。桃子さんのDVと

子どもへの不安が影響しているのは明らかだ。

「離婚してから何のために生きているのかわからなくなったんです。いちばんは子ども

を奪われたのが大きい。子どもが虐待されているかもしれないと思うと、毎日心配でた

まりません。こんな理不尽が許されるのかと思うんですよ」

5年間の結婚生活と離婚によるダメージは、敦さんの精神をもむしばみ、人生を根底から

大きく変えたのだった。

夫は連れ子を殴り、拒めず私も殴った 虐待にひそむDV

https://www.asahi.com/articles/ASM2M4HYXM2MUTFL006.html

増えてきた中高年男性の孤独死

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 東大震災から8年

復興住宅における昨年の孤独死は【68人】とか!

 特に男性の中高年者の単独者は、新たなる人間形成が

難しい人も少なくないはず… 

 これは被災地に限らず、日本全国、大きな課題として

浮上せざるを得ない問題となってきそうです。

 人付き合いを好まない人もあれば、若者においても

体調が悪くなり、買い物にも行けない人だって出てきてもおかしくない。

医者に行きたくても、無収入であれば、国保も払えない

生活保護にたどり着くノウハウもない人だって…?

社会に適応していなければ、対人関係の

構築にもぶれーきとなってしまう!

 当地の男性未婚者は沢山おられます。

この人たちは、地域とのつながりなどはまるでありません。

消防団にも入らない人は大半です。

 昔であれば好むと好まざるを得ない中

皆が消防団には入っていました。

 便利さが人のつながりを とおくしているのかもしれません!

 これから増えるであろう単独生活者の見守りは

 民生因、社会福祉協議会、市役所、町内会の

見守りネットワークで支えるほかないのでは… ?

   みこちゃんの愚作です♪

 おつむまで おぼろ月夜で 生きてます。

 デイジーは 無邪気な花か ラララララ

   アサヒコムより。の引用。

新たな人間関係を築けない…震災後に孤立する中高年男性

 東日本大震災の被災地で、災害公営住宅(復興住宅)で暮らす被災者の孤立が深まっ

ている。仮設住宅を出たものの、新たな住まいの片隅で孤独死する被災者たち。とりわ

け、孤立しがちな中高年の男性にどう手をさしのべるか、支援者たちは頭を悩ませてい

る。

復興住宅での孤独死が急増 昨年68人、入居後に孤立か

 仙台市若林区の復興住宅「荒井東市営住宅」(298戸)。昨年12月27日、2階

の一室で、一人暮らしの男性(60)が亡くなっているのが見つかった。死後数カ月。

孤独死だった。

 隣人はこの年の10月に入居した。引っ越しのあいさつに訪れたが返事はなく、違和

感を持った。異臭がするわけでもないが、チラシがあふれた郵便受けを見ておかしいと

感じ、町内会役員に知らせた。やがて駆けつけた警察官が、部屋で仰向けに倒れていた

男性を発見した。

 「何とかできなかったかなぁ」。こう何度もつぶやくのは40代の知人男性だ。

 この知人によると、男性は宮城県気仙沼市出身。トラック運転手や倉庫のアルバイト

などを転々とした。「俺は身寄りもないから」と話し、人付き合いは苦手だった。震災

に遭って仙台市若林区の自宅アパートは全壊と判定され、仮設住宅へ。そして2014

年、荒井東市営住宅に移った。

 暑いさなかの昨年7月中旬、突然電話が鳴った。「粒あんとマーガリンのコッペパン

、ヨーグルト買ってきて」

 家を訪ね、インターホンを押す。中から声がして、待つこと10分。ようやく玄関が

開いた。顔色は悪く、身長185センチの大柄な体がやせ細っていた。「最近体調が悪

く何も食べられない。これ食べてから病院に行くよ」。それが最後に聞いた男性の言葉

だった。

連絡する人もおられませんでした。

   我が心のエッセンス。

1、すべては自分の思い込み

垣根は相手がつくっているのではなく、自分がつくっている。

アリストテレス

どんな苦しみも悩みも、

すべては、自分の心がそのように決めています。

なぜなら、

僕たちは「ムカつくやつだ!」と他人のせいにしてしまいやすいですが、

この「ムカつく」気持ちは自分の内面から出ていることに気づかなければいけません。

今すぐ変われなくても、そのことだけ頭に入れておくと楽になれるかもしれません。

2、こだわりを捨てること

人の落ち度は、許すより忘れてしまえ。

中村天風

僕たちは、他人の気に入らない部分が気になりやすいです。

では、なぜ気になってしまうか分かりますか?

それは、

認めたくないかもしれませんが、

自分の中にも同じ気に入らない部分があるからです。

なぜなら、

自分の心の中にないものは、他人を見ても気にならないからです。

なので「他人は自分の写し鏡」と言われているのです。

自分をこだわりを捨てることで、イヤな部分は忘れてしまいましょう。

生前に、大切な人にお手紙を・・・。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

今日は、あの忌まわしい東大震災から8年。

命がメディアによりしきりと報道されています。

日頃お互いを大切に思いあえるようになりたいもの!

震災関連死は今だ後を絶たないといわれています。

家族、人の木綱こそがとわれるみらい!

 大切な人との死別は

残された者に多くの悲しみと、深い深い思があふれかえる時でもあります。

死別は定めでもあります。

生前の暮らしに深くかかわっていればいるほど

その切なさ、いとおしさは計り知れないものがあります。

でもこの時こそが亡き死者と濃密なる時間が過ごせる

唯一大切な別れの心のステージでもあるのだと解釈しています。

 何度「恐山」に行ってみたいと思ったことでしょう。

宇曽利山湖の湖畔にある恐山菩提寺は日本三大霊場の一つであり、9世紀頃に天台宗

慈覚大師円仁が開基した[1]。本尊は延命地蔵尊[1]。同寺は現在は曹洞宗の寺院であり[

1]、本坊はむつ市田名部にある円通寺である[2]。恐山は死者の集まる山とされ、7月の

恐山大祭では、恐山菩提寺の境内でイタコの口寄せも行われる。 

山々と湯煙、そして湖

このロケーションに触れるだけでも

心が癒されるように思えます。

 みこちゃんは1年くらいは、号泣の日々でしかありませんでした。

この一年は今、ふり帰れば

通過地点として大切な時間であったとも思えています。

この時期があったからこそ精神力、思いやりなどの

人生のたくましさも蓄えることができたのだと感謝でもありました。

 おかげ様で今では天国に召される日を

楽しみにできるようにもなってきています。

 号泣こそが、心のシャワーと思っています。

みこちゃんは、涙が出なくなるほどなくことも

心の浄化にとても良い時間であると解釈できるようにもなりました。

 母は、残された者が戸惑わぬように

ノートにたくさんの事柄を書き記しても暮れていました。

これは時がたったころから、ひも解くこともできありがたい

母の思いに触れ、素直に合唱することもできてもいます。

   【手を伸べて 母と語らう虹の橋】

不思議なくらい死者の夢を見ることはありません。

死別後に届く手紙「すまいるポスト」広がる共感

https://www.sankei.com/life/news/190302/lif1903020019-n1.html

 我が心のエッセンス。

ある夜、五祖法演禅師が、三人の弟子と帰る途中、風のために手にしていた灯火が消え

ました。すると、法演は弟子達に「一転語を下せ」と命じます。転語とは、さとりの心

境を表す言葉です。つまり

 「暗夜を行くには、灯火が何より頼りになる。それが、いま消えたのだ。さあ、お前

らはどう行くか、速やかに言え!」ということです。暗夜行路は人生を指します。杖と

も、柱とも頼むものを失った今、人生をいかにおくるか、現在の心境を問い詰めるので

す。

三人の弟子はそれぞれ自分の力量を述べます。中でも仏果圜悟の「看脚下」の一語が、

師の方演の心に適ったのです。「看脚下」---足もとをよく見よ、という平凡な言葉

です。灯火が消えたら足もとによく注意するのが何より大切です。暗夜行路も禅も脚下

---自己の凝視から一歩を踏み出します。日常の豊かな生活もそこから始まります。

 (中略)

禅は、自己の中に灯を持つとの教えです。醜悪な自分の心のどん底にも、こころの点火

、こころのめざめを呼びかけるのです。はかない人間の命の中に、久遠のいのちを発見

せよと教えるのです。

どうか、愛する人を失った悲しみに自暴自棄にならないでください。

自分も死ななければならない、などと考えないでください。

今日一日のつらさだけなら十分に耐えられるものだから、あまり悲観して先を見過ぎる

ことなく、一日一日しっかり足元をみてください。

東京大空襲から74年。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 東京大空襲から74年。

日本は目覚ましいほどの発展を遂げました。

 この空襲により、障碍者としての命の障害も

背負わされても来ました。

この被害者裁判では、国民が等しくこの結果を

受け入れるべきと裁かれています。

これも政府の決断一つです。

選挙は一人一人がこの結果を等しく受け入れなければなりません。

この債務超過も沖縄問題も受け入れなければなりません。

 成熟した政府は、自らの選択の結果ともいえます。

この戦争の重さだけは後世に伝え続けられなければなりません。

 来年は日本で2回目のオリンピックが

開催される運びになっています。

これも先祖の礎があればこその今日です。

Q 東京大空襲はいつ起きたの?

 A 1945年3月10日未明、東京の下町一帯が米軍の空襲を受けて、すさまじい火災が起きた。東京は42年から45年まで約130回の空襲を受けたが、この日の被害が最もひどい。だから、この日が「東京大空襲」と呼ばれている。

 Q どんな様子だったの?

 A 作家の早乙女勝元さんらがつくった「東京空襲を記録する会」の資料などによると、米軍の爆撃機B29約300機が、上空から炎をあげて火災を起こす「焼夷(しょうい)弾」約1700トン分を2時間半、落とし続けた。現在の墨田、江東、台東区はほぼ壊滅した。東京全体で27万棟が焼けて、約100万人が家を失った。

 Q 何人亡くなったの?

 A 東京都の戦災誌では約8万3千人とされている。ただ、川に飛び込んで亡くなり、海に流された人など、確認できない死者がもっといるかもしれないんだ。早乙女さんたちの資料は、墨田区の都慰霊堂にある遺骨の数などから「推定10万人」としている。子どもやお年寄り、女性がたくさん亡くなった。

 Q 民間人が暮らす地域を攻撃することは、国際法に違反していないの?

 A 大空襲の直後、日本政府はスイス政府を通じて米国に抗議した。だが、米軍はその後も日本各地で一般市民を巻き込む無差別爆撃を重ねたんだ。安倍内閣は2013年5月、大空襲について「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、人道主義に合致しないものだった」との考えを示したよ。

 Q 大空襲によるけが人や遺族はどうなったの?

 A 2007年、被害者たちは謝罪と賠償を求めて国を裁判で訴えた。しかし、13年に最高裁で敗訴が決まった。この裁判で、国は「戦争被害は国民が等しく我慢すべきだ」という戦争被害受忍論を主張した。それが補償の壁となってきたんだ。

 Q 被害者を救う手立てはないの?

 A 遺族たちはいま、お金などでつぐなってもらえるしくみをつくる運動をしている。でも高齢の被害者が次々に亡くなっていく。17年には、空襲でけがをし、生存する身体障害者に限り、50万円の一時金を支給する法案の素案が超党派の国会議員でできたが、まだ国会提案に至っていないんだ。(2015年3月7日、朝日新聞朝刊「いちからわかる!」を再構成)

Q 東京大空襲はいつ起きたの?

 A 1945年3月10日未明、東京の下町一帯が米軍の空襲を受けて、すさまじい火災が起きた。東京は42年から45年まで約130回の空襲を受けたが、この日の被害が最もひどい。だから、この日が「東京大空襲」と呼ばれている。

 Q どんな様子だったの?

 A 作家の早乙女勝元さんらがつくった「東京空襲を記録する会」の資料などによると、米軍の爆撃機B29約300機が、上空から炎をあげて火災を起こす「焼夷(しょうい)弾」約1700トン分を2時間半、落とし続けた。現在の墨田、江東、台東区はほぼ壊滅した。東京全体で27万棟が焼けて、約100万人が家を失った。

 Q 何人亡くなったの?

 A 東京都の戦災誌では約8万3千人とされている。ただ、川に飛び込んで亡くなり、海に流された人など、確認できない死者がもっといるかもしれないんだ。早乙女さんたちの資料は、墨田区の都慰霊堂にある遺骨の数などから「推定10万人」としている。子どもやお年寄り、女性がたくさん亡くなった。

 Q 民間人が暮らす地域を攻撃することは、国際法に違反していないの?

 A 大空襲の直後、日本政府はスイス政府を通じて米国に抗議した。だが、米軍はその後も日本各地で一般市民を巻き込む無差別爆撃を重ねたんだ。安倍内閣は2013年5月、大空襲について「当時の国際法に違反して行われたとは言い切れないが、人道主義に合致しないものだった」との考えを示したよ。

 Q 大空襲によるけが人や遺族はどうなったの?

 A 2007年、被害者たちは謝罪と賠償を求めて国を裁判で訴えた。しかし、13年に最高裁で敗訴が決まった。この裁判で、国は「戦争被害は国民が等しく我慢すべきだ」という戦争被害受忍論を主張した。それが補償の壁となってきたんだ。

 Q 被害者を救う手立てはないの?

 A 遺族たちはいま、お金などでつぐなってもらえるしくみをつくる運動をしている。でも高齢の被害者が次々に亡くなっていく。17年には、空襲でけがをし、生存する身体障害者に限り、50万円の一時金を支給する法案の素案が超党派の国会議員でできたが、まだ国会提案に至っていないんだ。(2015年3月7日、朝日新聞朝刊「いちからわかる!」を再構成)

あまり語られなかった 東京大空襲!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 1945年、3月10日といえば東京大空襲です。

いくら戦争とはいえ、還付なきまでに

おそわなければならなかったいみがどこにあるのか?

 引き続き広島長崎と容赦なく死の雨は襲い続けずにはいなかった!

もう日本には戦える能力までなかったことは、あめりかには把握はできていたはず

戦争を知らない子供たちの時代にあっても

海外では絶え間なく戦いは繰り広げられています。

 また戦争の歴史は、中国、韓国の報道からも

根強い痕跡を訴え続けてもいます。

どのような理由が生じようとも戦争だけはあってはなりません。!

   アサヒコムよりの引用

「またあそぼうね」引き裂かれた友との約束 東京大空襲 (3/9)

 東京大空襲の体験談をもとに東京都国分寺市の学校司書、山下ますみさん(59)が絵本「またあしたあそぼうね」(新日本出版社)を20日に出版する。描かれるのは、空襲によって友だちを失った少女の物語。同世代の実体験を通じて、いまの子どもたちに戦争の悲惨さを感じて欲しいという思いがこもる。

焦土と化した日本「空襲1945」 あの日の惨禍、写真は語る

 雨のように降り続ける焼夷(しょうい)弾、黒こげになった人の山……。絵本に描写されるのは1945年3月10日、当時8歳の少女だった二瓶治代さん(82)が見た光景だ。

 二瓶さんは現在の東京都江東区亀戸に住んでいた。空襲前日の夕方、一緒に戦争ごっこをして遊んだ近所の友だちとは、いまも会えずにいる。絵本のタイトルは、二瓶さんが友だちと別れた際、交わした最後の言葉だ。

 「遊ぶ約束はいまの子どもたちにとってもすごく大事な言葉のやりとり」と山下さんは言う。時代の隔たりを感じずに、子どもたちが絵本を手にしやすいと考えて、タイトルにした。

 山下さんは、平和教育の一環として小学校の図書館で、戦争関連の絵本を児童たちに読み聞かせてきた。特攻隊員たちを描いた絵本を読んだ際、特攻隊員だった父親から聞いた話を紹介すると、子どもたちの目がいつもより真剣になった。「実体験を伝える大切さに気がついた」と話す。

 2017年から戦争体験談の伝…

番組に寄せられた被災体験、ご意見・ご感想メールの紹介です。 

1 | 2

僕の父親の長女夫婦と子供、次男夫婦と子供、三男の妻が現在の亀戸5丁目に住んでいましたが、3月10日の東京大空襲の、あの日についてはよく話してくれましたし、次男・春夫は、石川島播磨重工の造船部長まで務めた技術陣のトップだったこともあり、詳細な手記を僕に残しています。

逃げた方向や地点のわずかな違いで、生死を分けたことがよく分かりました。

僕の伯父さんらは、現在の江東区堅川の土手に伏せて火の粉の川のような流れから身を守りましたが、わずか数十メートル横に伏せていた別の家族は翌朝全員が焼死体になっていたそうです。

何とむごたらしい光景だったかと思います。 

50代 男性

私の母の家族が体験。そのころ家族は深川清澄町に住んでいました。

母は空襲の日女学生で中島飛行場軍需工場二夜勤でいました。夜中三鷹から空を見たら深川方面が真っ赤でものすごい広さの赤でした。何かあった空襲だーーー

悲しい気持ちで夜勤明けで歩いて6時間深川に着いた途中瓦礫むごたらしい遺体のやまを超えてきたので時間がかかったそうです。母は自分が遺体に対してだんだん 無反応になったのが悲しかったといっていました。もっともっといいたかったようですが残念ながら2年前なくなりました。

家族は奇跡的に生き残りましたが夜勤でない友人は亡くなりました戦争はいやだ一般庶民が爆撃されると言っていました。

50代 女性

祖母が小岩に住んでいました。祖母が亡くなる前に、よく語っていたのは、東京大空襲の直後から、大勢の人が小岩の方に押し寄せてきたそうです。

慌てて近所の人を集め、おにぎりと漬物を配ったそうで、長い長い列ができたとのころです。

「飲まず食わずで歩いてきて、こんなにおいしいものを食べられるなんて」と涙を流して喜ぶ人達が多かったと語っていました。

この日まで、女学校の友達と一緒に残ると疎開をせずに頑張っていた祖母の長女も、川に沢山の人が浮いていて、赤ん坊を抱いた女の人の姿もあり、その様子を祖母に語って聞か

せたそうです。そして、私も疎開をすると言ったそうです。

  我が心のエッセンス。

恐怖感を持つ人間は、善いことよりも悪いことを

信じやすく、悪いことは誇大に考えやすい。

ダグラス・マッカーサー(Douglas MacArthur、1880年1月26日 - 1964年4月5日)は、アメリカの軍人、陸軍元帥。第二次世界大戦後に日本を占領した連合国軍の最高司令官や、アメリカの植民地のフィリピンの高等弁務官などを務めた。

我々の記憶に残るのは、規則を守った者では無く、破ったものである。