元野球選手の再出発。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

与えられた人生はそれぞれさまざまである。

人生の進行プログラムは、想定内のこともあるが、そうでないことも降りかかってくる。

仕事の転職は相当のエネルギーと覚悟もいる。

 日々の暮らし向きに関しても、小さな再出発もたくさんある。

これらを受け入れるには強い精神力とエネルギーが不可欠である。

まして、アスリートとしての日々に終止符を打つことの絶望感は

一般人には、味わうことのない人生のリセットからの出発。

まずお金に関する感覚の需要もご苦労があろうかと推察される。

当然のごとくプロからの通告はある程度の覚悟もおありかと思うが

生きるための選択は難しいのではと思えます。

毎日が野球漬けの日々であれば、、職業に対する意識レベルも低くキャリアを積む機会にも恵ま

れてはいなかったと思える。

野球選手の引退後の人生は、並々ならぬ努力なくしては明日をも迎えることはできない。

     東洋経済より。

高卒の元プロ野球選手、引退後の長い16年間 38歳、元阪神投手の公認会計士が悟った真実

?

今から4年前の2013年11月。その瞬間、思わず「あった!」と声が出た。公認会計士・監査審査

会のサイトに掲載された「平成25年公認会計士試験」の合格者一覧に、自分の受験番号が載っ

ていたからだ。信じられない気持ちで、何度も何度もサイトと受験票の番号を見返した。

プロ野球選手を引退して12年、公認会計士を志してから9年の月日が経っていた。合格がわかっ

た瞬間、うれしさよりも先に湧き上がったのは「ほっとした」という感情。短いとは決して言え

ない時間で、勉強を続けながら考えたのは、アスリートのセカンドキャリアについてだ。

僕のようなケースが、現役プロ野球選手をはじめとするスポーツ選手がキャリアを形成するうえ

で、何かのヒントになれたらうれしい。試験合格から4年、今夏から公認会計士として歩み始め

たタイミングで、これまでを振り返ってみたい。

戦力外通告の衝撃

2001年、9月も終わりにさしかかった頃、練習を終えて部屋に戻ると、ふだん鳴ることのない内

線が鳴った。

「あぁ、ついに来たか……」。僕が呼び出されたのは阪神タイガースの選手寮「虎風荘」の一室

。4年間住んでいたが、ほとんど入ったことのないその部屋には、普段めったに会うことのない

球団の編成担当職員が2人静かに座っていた。その顔を見た瞬間、今から僕が何を言い渡される

のか、容易に想像がついた。

「来季は契約しない」。想像していたとおりの言葉が聞こえてきた。自分なりに心の準備をして

いたつもりだった。それなのに、実際に受けた衝撃は予想をはるかに上回るものだった。

ほかにも何か話していたような気もするが、頭が真っ白になっていたのだろう。何も覚えていな

い。こうして、僕のプロ野球選手としてのキャリアはあっけなく終わりを告げた。

その年の秋季キャンプ、僕は背番号が3桁のユニフォームに身を包み打撃投手としてグラウンド

に立っていた。プロ野球界を去ってしまうことに未練のあった僕は、球団からの打撃投手の誘

いを受けたのだ。

野球ファンでなければ、打撃投手という仕事を知らない人が多いと思う。野手の打撃練習のため

に投げるのが仕事だ。つまり「打たれる」ために投げるのである。

ついこの間まで現役選手として「打たれない」ために投げていた僕は、この「打たれる」ために

投げることをすぐには受け入れられなかった。現役に未練を残しながらという中途半端な状態

での転向だったことも影響していたと思う。

頭ではそれを理解していても、無意識に指先に力が入りコースを狙ってしまう。しかも、僕が投

げる相手は一軍定着を狙う若手選手がほとんどである。気持ちよく打って首脳陣に調子のよさ

をアピールし一軍に定着してもらいたい。そう思えば思うほど、余計にコントロールが乱れて

しまう。この心の葛藤は打撃投手でいるうちに解消されることはなかった。

モヤモヤを抱えながら打撃投手を務めて1年後の秋、突然球団事務所に呼び出された。そして打

撃投手の契約を更新しないことを告げられる。まさかの宣告だった。正直、1年で打撃投手を解

雇されるとは思っていなかったのだ。

トライアウトが野球人生の区切り

その年の11月、僕は甲子園球場で開催された12球団合同トライアウトに参加した。まだ育成枠

のなかった当時、3桁の背番号で参加していたのは僕だけだったのではないか。テストとはいえ

、憧れだった甲子園のマウンドで投げられる。自分の野球人生に区切りをつけるのにふさわし

い舞台だと思ったのである。

対戦したのは打者3人。最後は三振で締めたと思う。とはいえ、それでどこかの球団から声がか

かるほど現実は甘くない。あとになってわかったことだが、実際にこの回のトライアウトで合

格者は1人もいなかった。

トライアウトが終わりいよいよ寮の退出期限が近づいてきたある日、部屋で何げなくパチン、パ

チンと爪を切った。その瞬間、?を涙が伝っていった。右手の人差し指と中指の爪を、無意識の

うちに爪切りで切っていた自分に気づいたのだ。

投手は爪の長さが1ミリでも変わると微妙に指先の感覚が変わり、それがコントロールに大きな

影響を与える。爪の割れやすい体質である僕は、高校生の頃から、その2本の指の爪は絶対に爪

切りで切らず、ヤスリで整えるようしていた。そのこだわりを忘れてしまうほどに、プロ野球

手ではなくなったことを、いつしか受け入れてしまっている自分がいたことに涙が溢れたのだ

った。

しかし、落ち込んでばかりはいられない。生活のためには否応なしに次の仕事を探す必要がある

。タイガースを退団し無職となった僕が進んだのは、飲食業界だった。現役時代からの馴染み

の店の友人と、引退後は一緒にお店をやろうと話していたからだ。引退後に飲食業に転身する

先輩が多く、プロ野球選手の引退後の職業としてイメージしやすかったことも理由の1つだと思

う。

やるならちゃんとやろうと、友人の経営するバーを手伝いながら、専門学校に通って調理師の免

許を取得した。それでも、具体的な将来のビジョンやビジネスプランが自分の中にあったかと

いうと、そうではなかった。

飲食業に飛び込んでみて痛感したのは、プロ野球界での生活がおカネの面で恵まれたものであっ

たこと、自分がいかに社会経験がなく世間知らずかということだった。自分の無力さを日々痛

感させられるたび、「俺はこの先どうなってしまうんだろう」という将来への不安ばかりが募

っていく。1年余りでバーを辞め、ホテルの調理場に職場を変えてみても将来への不安は解消さ

れないままだった。

自分を追い詰めてくるのは、それだけではなかった。18年ぶりにタイガースがセ・リーグを制

覇するという、それまでの暗黒時代が?のようなタイガースの快進撃に沸き返る大阪の街。引退

後も大阪で生活していた僕の耳に、遠ざけようと思ってもいやでも届くその情報が一層僕を苦し

めた。

タイガース優勝の立役者となったのは、同じ高卒同期入団の井川慶。20勝5敗という驚異的な成

績で賞を総なめにする、文字どおり大車輪の活躍だった。球界を代表する投手に成長した同級生

の華々しい活躍を祝福する一方で、延々とシイタケの石突きを切り落としたり、メロンの種を?

き出したりという地道な作業を繰り返す自分がいた。

熱烈なタイガースファンの調理場の上司は僕が元阪神の選手とは気づかぬまま、甲子園へ試合観

戦に行った自慢話やタイガースについて熱く語ってくる。僕は話を合わせて相槌を打ちながら

、自分の境遇と井川や元チームメイトたちの境遇とを比較して、嫉妬している自分がいること

に気づいてしまう。そんな自分に苛立ち、どんどん嫌いになっていった。ほんの少し前までは

同じユニフォームを着ていたのに。

「俺はいったい何をやっているんだろう」。自分だけが取り残されたような焦燥感、将来に対す

る不安はますます大きくなっていった。

そんなある日、仕事から帰るとテーブルに1冊の本がおいてあった。ありとあらゆる資格が掲載

された資格ガイドだった。

彼女が与えてくれた気づき

10円ハゲができるほどストレスをため込み日に日に焦燥感を募らせていく僕を見かねた彼女が

買ってきてくれたものだった。彼女は決して、僕に資格取得を勧めているわけではなかった。

少ない選択肢の中で悩み続ける僕に、世の中にはこんなにたくさんの仕事がある。もっと視野

を広げるべきだということを気づかせたかったのだ。

後に妻となる彼女のこのときの行動が、僕に新たな挑戦を決意させた。資格ガイドをパラパラと

読み進めていくと、「公認会計士」という資格が目に飛び込んできた。簿記の知識を生かして

ビジネスのスペシャリストとして活躍できるというその内容に、高校時代に簿記を学んでいた

僕は、何か運命的なものを感じた。しかも、大学での単位などを求められず、誰でも受験でき

るように試験制度が改正されるタイミングだったことも、高卒の僕にとってとても魅力的だっ

た。僕は迷わず受験を決めた。

すぐに資格予備校に申し込み学習を開始した。しかし、受験勉強は思うように進まない。経済的

にアルバイトをしながら勉強せざるをえなかった。それも確かに1つの要因ではある。だが、い

ちばんの理由は、現役時代に長時間机に向かう習慣がまったくなく、すぐに集中力が途切れてし

まい勉強から逃げ出してばかりいたことだ。

公認会計士試験の1段階目の試験である短答式試験合格には届かないが、日商簿記検定1級に合

格するなど、ようやく勉強が習慣づいて成果を感じ始めたのは、学習を開始してから3〜4年た

った頃だろうか。この頃、縁あって通っていた資格予備校を運営する会社に入社し、東京本社で

正社員として働かせてもらえることになった。

大阪で生活していれば、いやでもタイガースの情報が耳に入ってくる。東京へ移って会社勤めを

始め、劇的に環境を変えることで、受験勉強に集中し、成果を出したいという思いもあった。

慣れない東京の街での生活やデスクワークに当初は戸惑ったが、初めて一般事業会社の内部を

知ることができたことは、受験勉強にとっても確実にプラスの効果はあったと思う。

そして、2009年に短答式試験に合格。そこまではよかったが、論文式試験が僕にとって大きな

壁となった。公認会計士試験では、一度短答式試験に合格すると以降2年間は短答式試験が免除

になるという特典がある。合格した年を含めて3回論文式試験を受験できるということだ。この

3回の受験チャンスですべて不合格になることを、俗に「三振」という。

2011年、僕は「三振」を喫してしまった。

公認会計士の学習を始めてからすでに7年。もう一度短答式試験から受験しなければならない状

況に陥っていた。合格は不可能に思えた。もう受験は辞めよう。日商簿記1級や短答式試験の合

格実績があれば、以前から興味のあったコンサルティングの分野にも進めるかもしれない。そん

な思いも頭をよぎった。

岐阜の母や兄にも「いったい、いつまで受からない受験を続けるつもりなのか」と心配されてい

たし、会社の上司をはじめ誰に相談しても、「今までよく頑張った。公認会計士だけが人生じ

ゃないよ」と、みな受験を諦めることを肯定してくれた。

ただ1人、猛反対した人がいた。「そんなふうに中途半端に道を変えてコンサルティングをやっ

たところで、そんな気持ちでコンサルに来たあなたに頼りたい人なんているわけないでしょ!

」。それは、僕が公認会計士を目指すきっかけをくれた彼女だった。

プロ野球公認会計士も中途半端で逃げ出したら、この先もいろいろなことに言い訳をし続け

る人生になると思う。今、あなたに必要なのは何かを成し遂げたという自信。だから絶対にこ

こで諦めたらあかん!」。目の前の困難から逃げ出そうとする僕の心を見透かして、あえて厳

しい言葉で叱咤激励してくれた彼女の言葉に僕は、“合格するまで絶対に諦めない”と改めて

心に誓った。

そこからもう一度受験への取り組み方を見直し、一から受験生活の見直しを考えた。テレビやゲ

ームといった勉強に必要ないものは部屋からなくし、いつでもどこでも勉強できるようトイレ

やお風呂など部屋の至るところに教材を置いた。1分1秒でも無駄にはしないという思いだ。受

験を最優先に考えた本当の意味でのストイックな生活に切り替えたのである。

野球と受験勉強の共通点

それまで試行錯誤を続けていた勉強方法についても画期的な気づきがあった。野球と受験勉強は

そのプロセスが似ているということだ。目標達成のために、自分の課題を見つけそれを克服す

ることが大事なのだ。野球で言えば、甲子園出場という目標を立てて、実現のためにライバル

校に勝てる力をつけなければならない。そのためには自分はもっとストレートの球速を上げる

必要がある。走りこみ、筋トレをするなど日々、そのためのトレーニングをしていく。

これを受験勉強に置き換えると、合格という目標に向けて、簿記の得点を伸ばす必要があるとす

れば、授業を受ける、問題を解くなどの対策を行い成績を伸ばしていくということになる。

それならば野球で培ってきたものが生かせるはずだ。そう思い、投球練習の際に具体的なシチュ

エーションを想定するといった練習への取り組み方や、ピンチにマウンドへ上がるときのメン

タルコントロールの方法などを勉強にも取り入れてみたのだ。

たとえば、投球練習の際は漫然と投げるよりも、9回の裏2アウト2、3塁、打者は大谷翔平選手

で初球のアウトコースにボール1個分外したストレート。という明確な意図をもって投球練習す

るほうが効果は高い。受験の場合、問題を解くときに本試験会場で、試験時間残り5分、そこま

での手応えからして、この問題を正解できるか否かが合否を分けるかもしれない――といった状

況を想定して、時間を計りながら解くほうが集中力も増すし、解くスピードと正確性を意識し

たトレーニングにもなる。

こうした考え方を取り入れたことで、自分に合った効果的な勉強スタイルが確立され、成績は飛

躍的に伸びていった。2013年5月、再び短答式試験に合格した。そのままの勢いで8月の論文式

試験に臨む。3日間最後まで諦めることなく全力を出しきったものの特段の手応えがあったわけ

ではなかった。それでもふたを開けてみれば、冒頭にも記したように合格。当初は信じられな

い思いだったが、合格の喜びをようやくじわりと実感したのは、当時の会社の上司から「合格

おめでとう」と電話がかかってきたときだった。

一時は野球が大嫌いになり自ら遠ざけようとしていた時期もあった。しかし今では、日本で初め

プロ野球選手から公認会計士になったことで、メディアからの取材や著書の刊行、講演の依

頼など本業以外にも多岐にわたる仕事の機会をいただいている。何よりチームの垣根を越えて

、本当にたくさんの選手や球団関係者とのご縁が広がった。公認会計士というまったく畑違い

の資格によって、現役時代以上に野球界とのつながりが深まったのである。

そうなってみて感じるのは、長い人生の中で無駄な経験など何1つないということだ。高校生の

頃に簿記の学習経験があったことが、プロ野球引退後に公認会計士という選択肢を与えてくれ

た。僕の場合は公認会計士であったが、一人一人の人生の中にはさまざまな可能性の種が転が

っているはずだ。

野球以外にも可能性は広げることができる

「今まで野球しかしてきていないから、野球しかできない」。引退する選手がよく口にするフレ

ーズだ。だが、決してそんなことはない。野球しかしてこなかったということは、野球以外の

ことができないことを証明するものではない。壁にぶつかったとき、すぐに無理だと決めつけ

、自分の可能性を閉ざしてしまうのではなく、発想を転換し工夫することで、未来を切り開く

ことができる。スポーツ選手に限らず、誰でも自分の可能性を広げることはできるのだ。

この経験や考え方を多くのアスリートやスポーツに関わる方々に知ってもらいたいという想いか

ら、このほど、「一般社団法人アスリートデュアルキャリア推進機構」を設立し代表理事に就

任した。

セカンドキャリア」から「デュアルキャリア」へ――。この法人では、講演・セミナー・執筆

などの活動を通じて、現役中からアスリートとしてのキャリア形成と同時に引退後のキャリア

形成にも取り組む「デュアルキャリア」という考え方の啓蒙を行っていく。

アスリートのキャリア形成の意識・考え方の変化を促し、これからの時代のスタンダードにして

いきたい。

僕の経験が1人でも多くの方の、勇気を持って一歩を踏み出す“きっかけ”にしてもらえるよう

、道なき道を歩き続けたいと思う。

加計問題、ひけしもいないとは?

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

 中国新聞の「なるほど」記事に動かされた。

国の特区に議事録がないとは不思議の不思議?

政府側は答弁は最初から一貫してマニアル的回答に終始した。

酪農業も希望の縮小は後継者がいなくなったところで

これからも働き手の確保が難しいのが現状です。

このような時なぜに牛医学部が不足しているといえるのでしょうか

 野党も時間配分の不足、内容の精査が不十分と言わざるを得ない内容。

野党としての仕事はきっちり果たして全力を挙げて

加計問題の内容に踏み込んできちんと調査してほしい。

これは、職業人としての義務そのものです。

 国家戦略トックは総理の立ち上げた機関です。

これの公的文書がないとは怠慢でしかない。

総理のポケットマネーでこの期間が運営されているのではございません。

すべて税金で賄われています。

国会の場を軽視してほしくはないものです。

野党の成長も欠かせないところです。

今の状況では議員の削減も検討課題でもあります。

此のたびの公務員の給与アップの提案に反対者はいませんでした。

議員報酬に似合う仕事がかんぺきであったといえましょうか??

加計問題も野党にも仕事不足としか言いようがない。

国会運営が中身のある内容であることを期待してやみません。

     中国新聞より。

加計問題審議 はぐらかし、度が過ぎる

2017/11/17

質問時間が限られていた上、あいまいな答弁が目立った。これでは国民の疑念は拭えまい。加計

学園による獣医学部の新設計画について、文部科学省が認可した翌日になって、衆院文部科学

委員会で審議があった。

 野党がただしたのは、「既存の獣医師養成でない構想が具体化」をはじめ、国家戦略特区認定

の前提となる4条件などだ。誰が、どういう事実に基づき、条件を満たしていると判断したの

か。しかし、特区制度を所管する内閣府から、きちんとした答えは聞かれなかった。

 計画が獣医師ら専門家のチェックを経たか問うても、はぐらかした。特区関連の審議経過は記

録がなく、あるのは結論だけとも答弁した。説明責任を果たす考えがあるのか。国民の不信感

を募らすだけではないか。都合の悪いことが何かあるのか。そんな疑惑を深めてしまう。

 野党も決め手を欠いた。背景には、審議の経過や会議で出た意見をまとめた議事録が作成され

ていないなど、公文書の不備がある。

 大学設置・学校法人審議会がどんな議論を経て「可」としたのかも分かりにくい。判断を一度

先送りしたのは、教育課程や組織編成、獣医師の需要予測などに不備があったからだ。どう改

善されたのか。完全に解消されたのか。詳細なやりとりを明らかにすることが必要だろう。

 ところが、林芳正文科相は議事録はないと文科委で述べた。審議を公開するとメンバーの自由

な発言が妨げられるとの説明だが、今回のように疑念が生じた案件では、名前は伏せてでも審

議の詳しい内容を明らかにすることが不可欠だ。

 消化不良の質疑応答になったもう一つの理由は4時間という短い質問時間と与野党間の時間配

分である。従来の与党2、野党8を与党の主張で、与党1、野党2に変更し、野党が時間を十

分確保できなかったためだ。

 与党が政府とほぼ一体化する議院内閣制では、与党は疑問や改善要望は法案作りなどの過程で

ぶつけることができる。野党は国会質疑でチェック機能を果たすしかない。野党を重視する時

間配分は、そんな理由があるからだ。従来並みの比率に戻すべきではないか。

 与党の質問者として、8月まで文科副大臣だった義家弘介氏も登壇したが、当事者がチェック

役を務められるはずはなかろう。一種の「利益背反」行為ではないか。しかも、文科省による

省内の文書調査についての質問など、重要なら副大臣の時に聞いておけばいいはずだ。時間の

無駄としか思えない。

 野党は、民進党分裂の余波で連携した質問ができなかった。政府のチェックではなく、他の野

党やメディアに矛先を向ける議員もいた。審議の質低下は、私たちの民主主義の劣化の表れな

のかもしれない。

 安倍晋三首相が「一点の曇りもない」と言うなら、今からでもできることは多い。例えば4条

件がクリアできたと判断したのは誰で、どんな事実に基づいているか。記録文書を示すなり判

断した人から説明させるなりすればいい。首相として指示を出し、国民の前に明らかにすべき

である。そうした丁寧な説明を地道に重ねないと、国民の疑念は拭い去れず、認可も納得され

ないままではないか。

両陛下お出かけ先々で、真心のハーモニーの共有。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

天皇皇后両陛下が此のたび九州災害に3泊4日でご高齢にもかかわらず

現地の皆さまにお気持ちを御寄せになられました。

ご訪問の先々でお気持ちが届く真心に心動かされた

お方は皆さんではないのだろうか。

深い思いやりのお心が素直に伝わるお姿に

どれほどのお方がお心慰められたことだろう。

どこかの大臣が、災害地に雪、長靴もなく現地でご苦労されているお方に

おんぶされた光景は、わが身を疑いたくなるほどの光景であった。

このようなお方が大臣として国を統括しておられるのであるから

教育無償化も素晴らしい効果が期待できることでしょう。

 下記は皇后さまが皇太子さま誕生の折に作詞された詩です。

これは「ねむの木の歌」として

吉永小百合八代亜紀により歌い継がれています。

ねむの木の子守歌

作詞:美智子皇后陛下

作曲:山本正美

ねんねの ねむの木 眠りの木

そっとゆすった その枝に

遠い昔の 夜の調べ

ねんねの ねむの木 子守歌

薄紅(うすくれない)の 花の咲く

ねむの木蔭で ふと聞いた

小さなささやき ねむの声

ねんね ねんねと 歌ってた

故郷(ふるさと)の夜の ねむの木は

今日も歌って いるでしょうか

     朝日コムより。

皇后さま、被災地で聴き入った歌 16年前の淡き交わり

天皇、皇后両陛下は30日、3泊4日の福岡、大分両県訪問を終える。27日の九州北部豪雨の

被災地お見舞いでは、犠牲になった女性と皇后さまをめぐる、思いがけない交流があった。

〈特集:皇室とっておき〉

 ♪いづれの星かわが庭に 落てわ子とはなりにけむ 汝が愛らしき面(おもて)には 天(あ

ま)つひかりの輝やけり

福岡県朝倉市の同市役所杷木(はき)支所から両陛下が被災者らのお見舞いを終えて姿を現すと

、見送りに集まったある一団が、歌を口ずさみ始めた。ゆったりとした曲調。皇后さまは天皇

陛下を促すように一団に歩み寄り、笑顔で聴き入った。

歌は、皇后さまが作曲した「おもひ子」。皇太子妃時代、詩人で小説家の故・宮崎湖処子(こし

ょし)の詩をもとに作った曲だ。浩宮さま(皇太子さま)の子守歌として口ずさんだことがき

っかけで生まれたといい、子を思う母の気持ちがうたわれている。

支所内で両陛下と対面した熊谷(くまがえ)武夫さん(72)=同県東峰村=の妻で、豪雨災害

で亡くなったみな子さん(当時66)は生前、所属していた合唱団でよくこの曲を歌っていた

。2001年8月には、合唱団の一員として出演した東京公演で、両陛下の前でこの曲を披露

したこともあった。

公演で一団が歌い終えると、陛下は「皇太子が生まれた時、皇后が毎日歌ってました」と語りか

けた。

被災当日、川沿いの自宅にいたみな子さんは、職場にいた熊谷さんに「帰ってこん方がいい」と

電話で伝えた。その後、家が流され、行方不明になった。対面できたのは約1週間後。警察に

顔を見るのを止められ、結婚指輪で確認した。

両陛下と対面時、熊谷さんはかつて妻が両陛下の前で合唱を披露した際の新聞記事を見せた。記

事を見た皇后さまは「覚えていますよ」と話した。妻がいつも「立ち姿や物言いがきれいで、

すごいオーラのある人」と語っていた皇后さまがそこにいた。妻の思い出を、一つ共有できた

気がした。(吉田拓史、多田晃子)

加計問題は施設完成で着地。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

 加計問題は、新設認可を受け「幕引き化」との世論傾向もある中、

事務次官の勇気ある発言はありがたく思います

でもこれが正解なのかどうかは判明はされません。

安倍総理の表情はまるで主権者など風を切って踏み動かすかのようなオーラさえ感じます。

 安倍総理夫人も、「主人を総理として働かせてください」と

お願いされるなら、ここは夫人として森友問題にきちんとご自分のお言葉で

語られるべきです。

世論の疑いはベールの中です。

かわすのではなく真正面のお言葉を期待するっものです。

十位の学部が新設するならば、なぜ東北であったり福島であるのが国民の希望ではないのですか。

しかも、この新設は50年ぶりとのことではありませんか。

地元では理科大学がなぜにあのような拡大を続けたのか不思議に思う人もないではありません。

国会における加計問題の質疑は証拠に基づくきちんと説明可能な質問であってほしい。

猛、牛医学部施設は完成。これも実力からくるものであるならばけっこうですが・・・?

国家戦略トックの機能のゆうこうせいにぎもんはないのか?

国家戦略トックは総理の新設でその議長は安倍総理です。

そこで議論された内容には疑問はないのか?

     朝日コムより。

加計学園】認可に前川喜平氏「総理のお友だちにだけ特権」

学校法人「加計学園」(岡山市)による獣医学部新設計画をめぐり、林芳正文部科学相が14日

に新設を認可したのを受け、文科省事務次官の前川喜平氏は同日夜、「総理のお友だちにだ

け特権を与える行政行為」などと批判するコメントを報道機関に書面で出した。全文は次の通

り。

林芳正文部科学大臣は、加計学園獣医学部を認可してはならなかった。総理のお友だちにだけ

特権を与える行政行為であり、我が国の大学行政に大きな汚点を残しました。

認可がされても、決して幕引きとはなりません。不公正・不公平な行政を押し通し、国政を私物

化した事実は厳然と存在し続けます。

政権側は、国民による追及から逃げ続け、国民があきらめ、忘れてしまうのを待とうとしていま

す。責任追及からの逃亡をこれ以上許すわけにはいきません。私たち国民は、決して忘れては

いけないのです。

平成29年11月14日

前川喜平

天皇皇后両陛下、奄美諸島お見舞い。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

 天皇両陛下が此のたび(奄美群島にお気持ちを御寄せになる。

奄美は皇居の草取りのご奉仕に何度か通われていたお方に

陛下が噴火のご様子を訪ねて訪問を決断された。

覚えておられたのか85歳のご高齢にもかかわらず2泊のご予定で爆発の災害を見舞われる。

象徴としての役割として常に国民に寄り添い続けてこられたお姿には

誰もが心動かされることでしょう。

日本に今一番なくしている思いやりであったり、真心であったりと

誰もがそのお人柄に心穏やかな気持ちにさせていただける。

本当にお役割に徹してお過ごしであったと思えます。

これからは思いのままにお過ごしいただきたいものです。

当地もお越しいただき車中よりお優しいまなざしと

手を振り続けてくださったお優しさに感激させていただいたものです。

少しでも育んでいきたい真心のひとあじを・・・。

     毎日新聞より。

天皇陛下奄美群島訪問 離島の人々に心寄せる旅

遠く離れた島々の国民に寄り添いたいという強いお気持ちが、今回の訪問にも表れている。

天皇、皇后両陛下がきょうから18日まで奄美群島屋久島を巡られる。2015年に爆発的な

噴火が起き、避難を余儀なくされた口永良部(くちのえらぶ)島の被災者とも懇談し、苦労を

ねぎらう予定だ。

天皇陛下はこれまで沖縄や硫黄島など太平洋戦争の激戦地を訪問し、慰霊の旅を続けてきた。

奄美群島も戦後、沖縄や小笠原諸島とともに米軍の統治下に置かれた歴史がある。住民は本土へ

渡航が制限され、特産の大島つむぎや黒砂糖の販売の道も断たれた。島民の生活は困窮を極

めた。

両陛下は03年、奄美群島が日本に復帰してから50周年を祝う現地の式典にも出席している。

奄美の人々への思いを感じる。

自然災害では、1993年の北海道南西沖地震で大きな被害を受けた奥尻島や、95年の阪神

震災で被災した淡路島など、被災地の島々に出かけて住民を見舞ってきた。

天皇陛下は昨年8月8日に公表された「おことば」で、「常に国民と共にある自覚を自らの内に

育てる必要を感じてきました」と述べたように、象徴としての務めを絶えず模索してきた。

その中で「日本の各地、とりわけ遠隔の地や島々への旅も、私は天皇の象徴的行為として、大切

なものと感じてきました」と語った。皇太子時代を含めると、島への訪問は21都道県の51

島に上る。

天皇陛下皇后陛下とともに旅した全国各地で、その地域を愛し、地道に支える市井の人々がい

ることを認識したという。

そのうえで「天皇として大切な、国民を思い、国民のために祈るという務めを、人々への深い信

頼と敬愛をもってなし得たことは、幸せなことでした」と振り返った。こうした思いが、高齢

になっても離島や遠隔地を問わず、訪問する原動力となっているのであろう。

先月には九州北部豪雨の被災地を訪れ、被災者を励ました。

退位する時まで全力で務めを果たそうとする陛下の姿を目にすると、退位を決断したことの重さ

  

に改めて思いが及ぶ。

人口流星群もまじか。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

 夜の点体象まで人口流星群として未来に輝きを放つという。

これはベンチャー企業が開発しソノ初回実験ガ晴れ間のオオクヲ期待デキる地方都市として知ら

れる広島ガ選ばれたヨウデス。

時代ニ置いてきぼりノオバアチャンニハ、まッタクトイッテイイホド

イメージサエワキマセン。

ナンデモ可能性は無限大ノヨウデス。

shooting star)、天体現象の1つで夜間に天空のある点で生じた光がある距離を移動して消え

る現象。一般的に流れ星とも呼ばれる。原因としては流星物質と呼ばれる太陽の周りを公転す

る小天体が、地球(または他の天体)の大気に衝突、突入し発光したものである。

 

 やはり点対称は自然の織り成すゲンショコソ神秘も味わえることでしょう。

     朝日コむよリ。

人工流れ星輝くか、19年初夏に実験 広島・瀬戸内地域

人工衛星から金属球を打ち出して流れ星のように見せる技術を開発するベンチャー企業「ALE

(エール)」(本社・東京、岡島礼奈社長)は、2019年初夏に広島・瀬戸内地域で「人工

流れ星」の実験を行うと発表した。世界初の試みという。

〈人工流れ星のイメージ(ALE社提供)〉

 流れ星の「もと」になる直径1センチの金属の球を人工衛星から打ち出し、落下する際に出る

熱で光らせる。本物の流れ星より速度が遅く、地上で見られる時間が長い。狙った地点の半径

100キロの範囲で、夜空が明るい場合で5秒、暗ければ10秒以上見えるという。

同社は、18年末〜19年初頭に300〜400個の金属球を積んだ人工衛星を打ち上げる予定

。高度約500キロの地球周回軌道から、一度に5個以上を連続して放つことができる。

日本上空で流れ星を見せるには、衛星がオーストラリア上空に来たときに金属球を打ち出す。高

度60キロ付近で最も輝き、地上に落ちる前に燃え尽きる。シリウスの明るさに近いマイナス

1等星くらいに見えるという。岡島社長は「下を向いてスマートフォンを扱うことが多い世の

中で、すべての人が上を向く日にしたいと思います」と話す。広島で実験するのは、晴れる確

率が高く、世界的に知られる地方都市だからという。(田中誠士)

7日の発表では、ALEがふらせる予定の人工流れ星が、どう見えるかをイメージできるVR(

仮想現実)映像も披露された。VR関連会社「LIFE STYLE」(東京)が制作した、

お台場、浅草、横浜などに人工流れ星がふり注ぐ様子が360度動画で見られる。壇上でヘッ

ドマウントディスプレーをつけてVRを体験したファミリーマートの沢田貴司社長は「イメー

ジがわいた。本当に夢があることだと思っているので、いろんな形で応援できれば」と話した

。(永田篤史)

頑張れ、ベンチャー企業。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

スーパーコンピューターの省エネコンクールにおいて

日本が上位を独占した。。大学であったり、企業の開発部門が

ノミネートされたと思いきや、なんと未来の希望

日本に誇るベンチャー企業です。

このような企業がどんどん伸びて育っていってほしいものです。

かつてのけん引役であった大手企業に代わり

未来産業の発展に心から応援したいものです。

日本に産業が育たないと、いくら社会保障の充実を掲げてみても

いずれは絵に描いた餅で終わらざるを得ない。

日本の匠の技も形を変えて再登場いただきたいものです。

若者の頑張りは多くの元気をいただけます。

 楽天、サイバーえーぜんとの社長が高校生時代より

ネットで起業をすでに立ち上げておられた様子が

NHKで放映され頭から離れなかったことが懐かしく思い出されます。

日常の何気ない事柄が、思いもよらぬ工夫材料につながったりもするのでしょうか。

日本のあちこちでみらいをかたれるたのしいひになりますように・・・。

     朝日コムより。

スパコン省エネ、世界1―3位が日本勢 ベンチャー躍進

スーパーコンピューターの省エネ性能の世界ランキング「グリーン500」が13日、発表され

、日本のベンチャー企業が開発したスパコンが1〜3位を独占した。スパコンは膨大な電力を

消費するため、計算能力のほかに省エネ性能でも競争になっている。これまで大手企業や大学

などが開発の主体だったが、ベンチャー企業が躍進した。

開発したのは東京のベンチャー「エクサスケーラー」と「ペジーコンピューティング」。スパコ

ンの多くは大型空調設備などで冷やす「空冷式」だが、このベンチャーのものは冷却効率の良

い絶縁性の液体に基幹部を浸す「液冷式」だ。

省エネ世界一は理化学研究所(埼玉県)にある「Shoubu(菖蒲(しょうぶ))」。消費電

力1ワットあたりの計算回数は1秒間に170億回を記録した。2位は高エネルギー加速器

究機構(茨城県)のスパコンで168億回、3位はペジーコンピューティング社内のスパコン

で167億回だった。4位の米半導体大手エヌビディア社の151億回を大幅に上回った。

一方、計算速度の世界ランキング「TOP500」も公表され、同ベンチャーが開発し、海洋研

究開発機構(神奈川県)に設置されている「Gyoukou(暁光(ぎょうこう))」が日本

勢としてトップの4位に入った。計算速度は1秒間に約1京9100兆回(京は兆の1万倍)

で、10位の理研スパコン「京」の約1・8倍だった。「暁光」は省エネ性能でも5位に入

った。(〈杉本崇〉)